春雨 01
しかしその直後、私は即座に彼の爆笑の理由を把握していた。
同時にまだ握られていた手を振り払う。
「先輩っ! 私の事からかったんですか?」
「ははっ。…悪い悪い。まさか真面目に取ってくれると思わなくて」
「真面目にとるに決まってるじゃないですか! 」
私の抗議の声が聞こえているのか、彼は振り払われた手を腹に抱えて、再び爆笑しだした。
あ~あ、だめだこりゃ。
あきれてものも言えない。私は未だに笑っている目の前の人をあきれながら見つめていた。
「お前が変なこと言って俺をからかうのが悪いんだよ」
「…先輩こそそんなことやってるから彼女できないんですよ。私だったらお断りです」
私の嫌みも通用しなかった。
「別におまえに同情してもらおうとは思ってないね。こっちこそお子様には興味ないし」
「お子様って…1つしか違わないじゃないですか!」
「でも少なくともお前の方が子どもだろ? 痛いのに痛いって言えないし。冗談を本気で受け取るし」
う…それはそうだけど。本当の事だから反論できない。
いったいいつから演技していたんだろうか? 目の前で満足げに微笑む先輩には、さっき好きな人がいるかいないか訪ねた時の動揺ぶりは微塵も見られなかった。やっぱりあの時既に、騙されていたんだろうなあ。
「とにかく今日はうちに帰っておとなしくしてなさい。それで来週も真面目に来る事」
「命令するみたいに言わないでください」
「でも命令すれば来なきゃいけないって思うだろ。今は来づらいんじゃないのか」
ふっと気遣う様な口調になる。こういうのはずるい。気勢がそがれてしまうから。
先輩の言わんとすることは分かっていた。実はもう行くのはやめようかとも思っていたのだ。
「まあ、そうですけど」
「一度でも休んだら次からもっと来づらくなるだろ。とりあえず、来週来なかったら俺が直々に家まで迎えに行くからな」
優しい声をかけてくれたのは一瞬だったようだ。
「え~! それは勘弁してください」
「心底嫌そうな顔するなよな」
「嫌に決まってるじゃないですか。…わかりました。来週もちゃんと行きます」
家までおしかけられたらたまらない。冗談だとは思いたいけど、さっきのことを思うと本気で来るかもしれない。
「よろしい。まあ、最初は俺に会いに来る様なつもりで来なさい。これば相手してやるから」
「お子様には興味ないんじゃなかったんですか?」
「だから早く俺に相手にされるようにお子様脱却目指してがんばれよ」
「…先輩に相手にして欲しいとは思いませんけど」
思わずぼそっと呟くと、彼が不意に立ち上がった。そして頭の上に手を翳される。私はびくっと目をつむった。軽口に対して叩かれると思ったのだ。
しかしいつまでたっても痛みはこなかった。
おそるおそる目を開ける。鷹凪先輩は私の頭を撫でるかの様にそっと手を動かした。
彼の腕の横から顔が見える。
先輩は、笑っていた。
「美智~! かばん持ってきたよ」
ぱたぱたと足音が聞こえた。その直後に元気な声が保健室に響き渡る。
彼女はドアを開け、目の前にいた人物を見て一瞬言葉に詰まった。
「あれ、鷹凪先輩、いたんですか」
「なんだ? いちゃ悪いか?」
やや不機嫌そうな声なのは気のせいだろうか? 彼女、秋田香は少し面食らった顔をした。
「今日は2人とももう帰っていいから。来週はいつものとこに10時半集合な。
お前も、ちゃんと来いよ」
先輩は念を押す様に私の方を指さした。
「は、はい」
思わず素で返事をしてしまった。先輩はちょっとだけ笑うと、保健室から出て行った。
「美智、先輩も付いてきてくれたの?」
どこか心配そうな香の顔。
「うん、私の後にここにきたの。足の消毒が一人で出来なかったから、手伝ってもらっただけ」
何となく嘘を付いてしまった。何故かは自分でもよく判らなかった。
「そうなんだー。先輩って意外に気が利くんだね。私怖いだけの人かと思ってたよ」
ついさっきまでの私と同じ様なことを言う香が面白かった。彼女も私と同じ目に遭ったら彼に対する認識を改めるだろうか?
なんだか事故にでも遭った気分だ。彼のおかげで落ち込んだり悩んだり怒ったり、忙しかった。
嫌、落ち込んでるのはあの日からずっと変わらないけど。
それでも今はそれほど嫌な気分じゃなかった。
「鷹凪先輩って、意外と…変?な人だったよ」
それが私の感想だった。
「え~? 何それ?」
香は冗談かと思ったのか、まともに取り合ってはくれなかった。仕方ないか、私が言われても信じられないし。
「美智の荷物ってこれだけでいいよね? 私の荷物も持ってきたから、一緒に帰ろう!」
香が私の荷物を持って私の方に近づいてきた。正面にたってまだ座ったままだった私の顔をのぞき込んだ。
「美智、立てる? 手を貸そうか?」
彼女は私に手を貸しながら顔をのぞき込み、ふと言った。
「…あれ? なんか顔赤いよ? もしかして熱ある?」
何気なく言った彼女の言葉。いや、そんなはずはない。
「大丈夫だよ。ほら、帰ろ!」
私は打ち消す様に立ち上がって彼女を促し、帰途についた。
その夜、先輩の腕の隙間から見えた顔が頭から離れなかったというのは、誰にも言えない話。