その腕に焦がれて
「隣の市にある美術館。そこで一年ほど続いている企画の『季節をモチーフにしたギャラリー』があるらしいけど、それが好評になって結構それ目当てに来る客も多いらしいねんて。ちなみに、そこに五十嵐さんの事務所の新入社員が毎回出品し続けているんで、こっそり見に行って評価してあげようとかって」
推測は確実なものへと変化していく。
それでも、次の日曜日にはちゃんと守るからと付け足してくれる相手の優しさに、まだ縋りつこうとしている自分が本気で情けなかった。仁科への牽制といっても、仁科だって毎週暇じゃない。最近は二週間に一度のペースになっていたので、ついつい条件だという事を忘れてしまいがちなのは捺の方だった。
「別にいいよ。それに、向こうも忙しいみたいで、今日だって来てないしさ。だから、利久も僕の事は気にしないで、五十嵐さんとの時間を楽しんできなよ」
嘘つき。本当は、気にして欲しいくせに。
笑顔の下に隠した本音。それでも、幸せな相手の気持ちを壊したくないというのも、捺のもう一方で育っている本音でもあった。どうしても思いどおりにならなくて、ままならないのが感情というものらしい。
利久はコーヒーを飲み乾すと、ジャケットを羽織って鞄にパソコンを仕舞う。そろそろクローズの時間が近づいているのに気づき、捺も仕事に戻ろうと意識を切り替える。これから表に出している看板を仕舞い、軽く店内を掃除して、明日の準備を確認する。それが日々のルーチンワークだ。
「ほな、あの人に何かされたら、ちゃんと連絡いれるんやで」
「大丈夫だって。だから、気にせずにね」
念押しをして利久がミスルトから出ていく。その後姿を眺めた後に一瞬で消える笑み。さっきまでの明るさもすっかり潜めてしまい、ついつい溜息がこぼれてしまった。
その後、自分がする用事を済ませると、キッチンから声がかかる。
「どこまで我慢するつもりなんだ、お前は。自分で自分をとことん傷つけてどうするんだよ」
まったくと呆れつつ、気づけばカウンターにハーブティーが置かれていた。ほんのりと甘いハーブの香りに、強張っていた心がほっと安らいでいく。
店内の掃除はそれを飲んでからでいいと、捺を手招きすると橘はスツールに座らせた。
向かい合う形になり、心配を掛けてしまっている事態を素直に謝れば、今更だよと軽口で返された。それでも、こうやって気遣ってくれる相手に感謝する。
一口飲んだお茶は、香りがもたらしている通りに甘みがあり、沈んでいた心を癒してくれた。あたたかい飲み物は、暗く冷えた気分を浮上させてくれるとどこかで聞いたことがあるけれど、それは事実かもしれないと捺はゆっくりと味わってハーブティーを飲んでいく。
「……ねえ、僕って馬鹿な事してるって思う?」
「だから、最初からそう言ってただろ。後悔するって。でもやめなかったのは捺だよな」
「そう…だね。だって、ちょっとでもあいつの傍にいたかったんだもん」
「ま、好きな相手と一緒にいたいって気持ちは分かるけどな。でも、これで本当に向こうが好きな相手とくっついたらどうするんだよ、本当に」
「……どうするんだろうね」
カップを両手で包み込む様に持つ。
じわりとした温かさが心の芯にまで沁みて、思わず涙腺が緩みそうになった。
きっと笑って、よかったとか言うんだろう。……でも、成就してしまった後に、平常心で二人を見る事がはたして出来るのだろうか。
もし、ぎこちなくなってしまったら、利久が訝しがる。追及されてしまったら、それこそどうしたらいいか分からなかった。
(先に何が起こるかなんて、まだ知らないのに想像でこれだもんなー…)
捺は、もう一度、
「ほんと、どうするんだろ……」
と呟き、唇を微かに震わせて俯いた。
◇ ◇ ◇
日曜が近づく度に気が漫ろになってしまい、カップを一つ割ってしまった。
他にも接客中に多少案内が遅れたり、注文を危うく間違えそうになったり。
さすがに、これでは仕事にならないからと、橘から強制的に二日間の休みを言い渡されて今は自宅で何をするわけでもなく、ただごろごろと寝ている状態だった。
ちょうど日曜日も休みにしてくれていたので、ちゃんと気分を切り替えてくる様に言い渡されている。自己管理をするのも働く者にとっては大事な事だ。だからといって、心のコンディションを簡単に立て直すのは難しいのも理解している橘だから、こうやって休暇を与えてくれている。
(…甘えさせてもらってるよね)
今日は土曜日。
明日が休みという客にとって、夜のディナーを楽しみにしている者が多いので、きっとこれからの時間帯は忙しいだろう。いっそ働いていた方が忘れられていいかもしれないと思い直し、携帯を鞄から取り出した途端着信音が鳴る。
とれば、慌てた様子の利久からだった。
『なあ、そっちに俺が持っていった資料とか残ってへんか?』
唐突なものに、捺は首を傾げた。
「資料…、仕事してたのって結構前だよね?」
『そうなんやけど、急に使う事になって……、家や会社探しても見当たらんかったし、今日ミスルト行っても橘さんは見かけてないって言うしで、もしかしたらそっちに置きっぱなしのまま違ごたかなって思って……、そやっ』
耳元で大声を出されて、思わず携帯を耳から放してしまう。
「…なんだよ、いきなり」
『ミスルト行ったら、今日休みやって言われて、体調でも崩したんちゃうかって心配しとってん』
「……ちょっと風邪気味だっただけ。季節の変わり目で油断してたんだ。ほらカフェって客商売でしょ、マスクして接客するのもどうかってシュウに言われて、早めに治す様に休まされただけだよ」
『なんや、そっか。それやったらゆっくり寝ときや。あ、でも少し寄らせてもらうけど、ええやろか…』
すまなそうな声に、よほど困っているという様子が汲み取れた。
絶対に必要なものだろう。捺が来ていいからと告げると、改めて謝られた。とりあえず、通話が終わると部屋の机の上や横を探してみる。雑多に積んである建物の雑誌や情報誌。デザインソフトの専門書など、それらは全部捺の仕事関係だ。
自分のものじゃないのを探すのは簡単な様で、結構大変かもしれない。
捺もつい先日までネットで資料集めをして、かなりの紙を使用している。もしその中に紛れ込んでいたら、と数枚見た所で明らかに自分に関係ない資料が挟まっていて、多分これが探し物だろうと見当をつけた。
(分かりやすい所に置いておこう)
改めて散らかった部屋を眺め、小さな溜息が洩れてしまう。
心が疲れていると、片付けるという行為すらだんだんと面倒くさくなるらしい。
とりあえず、自分の分はきちんと分類していこうとテーブルの上にある紙の束に手をつけようとした時、来客を告げるチャイムが響いた。
「え? もう?」
携帯からだったので、すぐ近くから電話をしていたのかもしれない。
もう一度鳴らされたチャイムに捺がドアを開けると、立っていたのは利久ではなく、仁科だった。相手は、すっと捺の目の前に箱を差し出す。
「これ、橘からの見舞い。っていっても、体は元気なんだろうな。たまには作る側じゃなくて、食べる側にまわってもいいんじゃないかってさ」