その腕に焦がれて
締め切りよりも数日早く仕上がったと捺が知人に電話で伝えると、会社まで持ってきて欲しいと頼まれた。
橘には、閉店までには戻るからと告げ店を抜けて地下鉄に乗る。渡すだけなので、すぐに用事が終わり、ミスルトに戻ろうと駅に向かう途中、ここが植物園の最寄り駅だったなと、ふと気づいた。
(すぐに帰る方がいいんだけど、ちょっとだけなら)
いいよねと、地下鉄の出入り口を通り過ぎ捺は植物園へ足を向けていく。チケットを渡したとはいえ、興味があったのは本当なので、覗くだけ覗いてみようと決めて園内地図を探す。今の季節はちょうど緑が映えるので、周りは新緑の色が鮮やかに空間を彩っていた。
仕事もひと段落つき、捺は両手を上に伸ばして軽く深呼吸をする。
こんな風に、一人でゆっくりとした時間を過ごすのは数週間ぶりだった。いつもは、利久や仕事関係で頭が多少オーバーワーク気味だったので、心が疲れていたのかもしれないと自覚する。
「こんな事なら、デジカメ持ってくれば良かったかも」
デザインや仕事に関して新しい刺激があるかもしれない。それを残す事が出来ないのを少しだけ残念に思う。
捺は園内の案内図に書いてある丁寧な順路通りに回ろうと決め、傍に置いてあったパンフレットを手にとった。
土曜日で、しかも今日は陽があるので暖かいのか、園内には楽しげに植物を鑑賞している団体やグループがそれなりにいて、不意に一人でいるのがほんの少しだけ寂しくなる。それはきっと遊園地の件があるからだろう、あの時は隣に利久がいてくれたから。
「さて、行きますか」
中央にある森林公園で、捺がチケットを貰ったイベントがやっていたので、それは最後に行くと決める。
植物園にくると、日々見かける木々や花にも名前があるんだと、当り前の事に気づかされる。どこの国からきたものか、どの季節に一番見ごろなのか、一つ一つの看板を読みながら名前の由来、色の種類を眺めていると、だんだんと心が穏やかに静まっていく。
温室を出た所で腕時計を見て時間を確認すると、入ってから一時間以上経っている。そろそろ戻らないと、夜のディナーの時間の仕込みに間に合わないだろうと思い、捺は慌てて森林公園に足を向けた。
森林公園の一角に大きな白いテントが張られており、その中で生け花展がやっているみたいだった。
生け花といっても、床の間に飾られている様なものではなく、もっと大きくダイナミックなものが多く、テント内に入った途端目に飛び込んできた大きな花瓶と、それに活けられた花の瑞々しい鮮やかさに目を奪われる。赤を基調とした場所、黄色を基調とした場所と、色別に分けられているので、統一感があり見やすくなっていた。
さすがに週末というのもあり、客の入りは繁盛しているらしく、人の波は多い。
(ほんとに撮りたかったなー…)
この斬新さを残しておきたい衝動に駆られる。歴史のある華道とは違う、また新しい形。それを見た感動を切り取っておけたらと少しだけ後悔したが、来週半ばまでこの展覧会はやっているみたいなので、店の定休日にもう一度足を運んでみようと心に誓う。
足早にいろいろ眺めていると、ふと聞きなれた声を耳が拾った。
(……まさか、ね)
そんな偶然あるわけない。
ちょっと前に考えていたから、似た声に反応しているだけだと思いつつも、そっと数メートル先に視線を向けた。
捺の思い過ごしだという期待はあっさりと裏切られ、楽しげに笑いあっている二人が瞳に映し出される。それなりに距離があり人の壁もあるので、微かに笑いあっている声ぐらいしか耳に届かないけれど、楽しげな雰囲気なのは察する事が出来た。利久が作品に添えられている説明書きを指しながら、何かを伝えているのに、相手はうなずきながら微笑んでいた。
(あれが五十嵐さん、だよね)
人に安心感を与えるような柔らかい笑み。
ずきりと胸が痛んで、捺は右手で左胸のあたりを掴んだ。立ち止まっている捺と、次へと進んでいく二人との距離はどんどん離れていく。
やがて見えなくなっても、しばらくその場から動けなくて、捺はぎゅっと唇を噛む。
まさか会うなんて思わなかった。不意を突かれてしまい、動揺した気持ちはなかなか収まってくれなくて、それまで浮足立っていた気分が一瞬にして沈んでしまう。
「……とにかく帰らなくちゃ」
小さく呟きを落とす。
帰って橘に遅くなった事を謝って、それからいつもの様に働いて。
現実に見た二人を頭から追い出したくて、これからの行動を胸の中で反芻しながら、捺はようやくゆっくりと一歩を踏み出していった。
あれから一週間。
今でも捺の出した条件をきっちりと守っている利久は自分の休日返上でミスルトを訪れていた。
客が利久しかいないという事で、橘も捺が利久と話しているのを黙認してくれている。
あの光景を見る前なら毎週日曜日を楽しみにしていただろうと、捺は相手に気づかれないようにそっと息をついた。
「でな、やっぱり仕事人間やなって思ってん。持参してきたデジカメで興味ある被写体を次から次へとバシバシ撮って、資料に出来るかもしれんからやて。もちろん、今日は楽しむ為に来たって言うてくれてんけど、結局最後には仕事がらみの話になってもうて」
五十嵐さんらしくて、結構尊敬したんだと利久の表情が和らぐ。
(なんだよ、その顔……。まったくしまりがないんだから)
そうなんだと、思わず声のトーンが少しだけ低くなってしまう。
嫉妬してるなんて馬鹿な話だ。きっかけを作ったのは自分なのだから……。
「けど、きっと捺も同じ事するんやろうなて、あの時に思たな。前に、いろんなもの見て勉強せなって言うてたやろ。なんでか分からんけど、五十嵐さんと捺て少し似てるかもしれへん」
自分の名前を出されて驚いてしまう。
「僕とあの人が?」
「そうや。向上心の強さとか、そういう徹底したいっていう姿勢が、なんとなくやけどな」
優しげに笑う利久の表情が、あの日と重なって見えて。
きっと思い出しているのは先週の出来事だろう、相手の口元が綻んでいるのが分かって、捺の心に僅かに苦味が差す。それでも、同じ事をすると思われた事で少しだけ嬉しくなってしまうのも事実で、それだけ利久が自分の性格を理解してくれているのが、どこかくすぐったかった。
「ああ、それでな悪いねんけど来週はちょっと、ここに来れんかもしれんねん」
両手を合わせて謝ってくる相手に、どきりとした。
利久から日曜日に行けないと伝えられ、もしかしたらその日は五十嵐と一緒に過ごすのかもしれないと、ついつい邪推してしまう。
お互い社会人で、時間を合わせるとしたら休みを調節するしかない。だから、その貴重な休日を好きな相手に使うのは、普通の思考だろう。
「この前の植物園のお礼に、今度は五十嵐さんからの誘いがあって、それが日曜日と重なってな」
「…へえ、どこに行くの?」