その腕に焦がれて
捺はグランドピアノが置いてある場所へと足を進め、その隣にある木琴の形をしたものに手を伸ばした。素材は特殊なガラスで作ってある為に、実際見た目は鉄琴に近いかもしれない。形は曲線をモチーフにしているので、柔らかい印象を与えるそれに、少しだけ胸が熱くなる。
「それって、どうやって音鳴らすん?」
「触れると鳴る様にちゃんと細工してあるんだよ。音階もきちんとつけてあるだろうし」
そして、押したところがライトで光るという特色もちゃんと生かされていた。
全部自分が考えた通りに作られているのに嬉しくて、そしてどこか寂しくもあった。提供者の名前は自分の元同僚であり、尊敬していた相手だから尚更かもしれない。
「こういう楽器って、小学校とか中学校なら珍しくなくて、あんまり触ろうとしないんだけど、どうしてか大人になったら触りたくなるんだよね。響く澄んだ音が心地よくてさ、そんな風に小さい頃は感じなかったなーって」
ポン、と音を鳴らす。
「俺、楽器とかあんまり縁なかってんけど、木琴とかはむやみに叩いたりしとったな。あの高い音が好きやってん」
隣に並んで、利久もポンと音を響かせた。
そのまま何度か鳴らして、
「これは、お前の作品や」
と、呟きが落とされた。
「…利久?」
「ちゃんと考えて、音で人がどうやって楽しめるか考えたんやろ。その為に寝てなかったりしたんちゃうんか?」
確かにそうだ。
初めて自分で必死に考えて、アイデアを出すために費やした時間だってある。それこそ、今考えると力が入りすぎていたんだなと思えるくらい、あの時は自分に出来る精一杯の力を出していた。
「ここにある名前は確かにお前やない。けど、俺はこれが捺の作品やってちゃんと認識したで。そういう奴が一人でもいたら、ええんちゃうか」
「…そうだね」
思わず目頭が熱くなって、捺は唇をきゅっと噛みしめた。
誰かに楽しんで欲しい、そう願いながら費やした日々が無駄じゃないと肯定された様で。そして、それが利久で良かったと心から感謝した。
隣には同じ型のものがもう一つあり、そっちは高さが二分の一くらいだった。きっと、子供にも楽しめるように配慮されたものだろう。これは自分じゃなくて、先輩だった彼のアイデアかもしれない。
アイデアなどをトレースされた時、もっと食いかかっていたら、今も会社をやめていなかったのだろうか。そして、その相手と喧嘩をしていたのだろうか。
今は全てがもしも…という仮定でしかないけれど、もしかしたら向こうも焦っていたのかもしれないと、ふと思い浮かんだ。社員全員の企画が通らないから、社内でコンペが開かれたわけであり、いわば周りの全員がライバルという事になる。実績もそれなりに積んでいた先輩だったので上からの期待もあっただろうし、下から追い抜かれるというプレッシャーもあったのかもしれない。
だからといって、やってはいけない手段に出たのは、やはり相手の心が弱かったのだろう。そのせいで捺は傷ついて会社を辞めたが、それもまた弱さだったんだと今なら素直に認められる。
それはきっと、隣にいる彼の言葉に救われたからだ。
(知っているのが一人でもいればいいんだ)
頑張ったなと、優しく見つめられ小さく頷いた。
「ねえ、お兄ちゃん。これ、さわってもいい?」
下から聞こえた声に目線を下げれば、四、五歳くらいの女の子がわくわくしながら話し掛けてきた。
指しているのは、小さい方だ。
捺はしゃがんで目線を合わせにっこりと微笑むと、いいよと伝える。
その途端、ふわりと女の子が笑って、ポンポンと楽しげに音を出していく。
「楽しいか?」
訪ねた利久に対し、相手はうんと笑って、いろいろ叩いて音楽を奏でた。自分たちでも知っている童謡を弾いているのに、自然と頬が綻んでいった。
誰かが楽しんでくれたらいい。そのコンセプトが達成されているのを目の当たりにして、捺は実現してくれた同僚に感謝を心の中で述べる。「大人が楽しむ」という目線でしか考えていなかった捺に対し、もう一つのエッセンスである「子供の目線」を加えられたのは向こうの企画力だから。自分では、この子に笑顔をあげる事は出来なかっただろう。
他にもある音楽楽器を触ったり、楽しんだりしているうちに、気がつけば陽が大分傾いて、空がほんのりと赤く染まりだしていた。
「ねえ、今から観覧車に乗らない?」
「男二人でか? なんや空しいなー」
「いいじゃん別に。あれだけ乗りまくったんだし、最後にはゆっくりとした乗り物でもさ」
幸いあまり混んでいなく、思ったよりも早く乗る事が出来た。ゆっくりと上昇していくのに窓の外を眺め下を向くと、だんだんと人物や建物が小さく見え始める。視線をさっきまでいた場所に向け、あの女の子は満足して帰っただろうかと考えた。
だんだんと濃い赤に染まっていくグラデーションの空。あと数時間もしたら、今日が終わっていく。
「今日はありがと、利久。正直見るまでは、どんな風に受け止めたらいいんだろうって思ってたから」
ぽつりと落としたのは、ずっと胸に抱えていたものだった
「ああ、さっきのデザインの奴?」
「うん。でも、来てよかった。今ならあの人の気持ちが少し理解できたからさ。どこの業界もそうなんだろうけど、仕事をしている限り下にいつか追い越されるかもしれない怖さってあるんだなって。あと、仕事があるかないかっていうのもね。クライアントの要望に応えられなければ、その時点で他の誰かに仕事が回されてしまうでしょ。それって、一種の恐怖なんだよね。……きっと、あの人も一生懸命だったんだって。あ、でもだからといって全部が許されるとは、全く思ってないから」
捺にした行為は、許されるものじゃない。
きっと、それを一番理解しているのは、やってしまった本人だろう。
「そやな、ちっとばかし阿保やったわけや」
「だね。でも、やっぱり先輩だって思ったよ。辞めた今でも、ちゃんと僕に教えてくれたから」
いろんな角度から視点を変えて、見つけたり拾ったりしたアイデアを取り入れる。
「もっと色んなものを見て、聞いて、勉強しないと」
「そうやな。その意気込みがあったら、前に進めるで」
違う会社を探すという選択肢もあるけれど、捺が選んだのはフリーという仕事の道だった。足場も不安定だし、正直、人脈だってあまりない。それでも、年月をかけて自分なりのデザイン力を磨けていけたらと……切に思う。
(…五十嵐さんも、そうだったのかな)
立ち上げた事務所を成長させる為に、必死になったりしたのだろうか。斬新だったり、周りに溶け込むようなシックなものだったり。場所によって、しっくりとくるデザインされた作品を生み出す彼も、年月を重ねながら試行錯誤して今の地位を築いたのだとしたら、想像以上の苦労をしただろう。
「そろそろ下についてしまうな」
「十五分って結構短いんだね。あー、でも今日は本当によかった。帰りだけど、ご飯食べて帰る?」
「ちょうど晩飯にはええ時間やし、そうするか」
もう少しだけ一緒にいたいという想いを抱きながら、捺は利久に笑いかけた。
◇ ◇ ◇