その腕に焦がれて
いいからと、もう一度橘に念を押されて、私服に着替えた後すぐに店を出る。そのまま利久を送りに駅へ向かおうとしたのだが、利久が捺の得意なケーキを食べたいと言い出したので、結局二人揃って捺のマンションまでの道のりを歩いていた。
「今から作るし時間かかるよ。それでもいいの?」
「かまへん。その間仕事の資料整理してるし。最近忙しいから、ちょっと休憩したかってん」
葉桜が新緑になる季節。この時期になると新入社員の指導から少し解放されるが、四月から止めていた企画を急いで進めないといけないらしく、ここ暫くは休日返上で出社していたらしい。
街を歩き、新規の店があると直接営業をかける、一つの会社や店をピックアップして掘り下げて記事にする。利久が担当しているのはその二つで、新規の店を開拓するのを新人と組んで取り組んでいたのが四月初旬。ピックアップの企画は、ここ一年ばかり任されているみたいだった。
それならばと、近くのスーパーで材料を買い、マンションに戻ると捺は適当に過ごしていいからと言い残してキッチンへ向う。
デザインの仕事はしばらく不安定で、決まった依頼もない。
フリーのデザイナーになってからまだ一年目。会社を辞めてからあっという間だった気がする。まだまだ学びたい事も沢山あったが、それでも未練はなかった。
(さてと、作りますか)
思い出しそうになった過去に蓋をして、気持ちを切り替え材料を計測していく。
薄力粉にベーキングパウダー。砂糖に、卵。
それに、利久が好きな甘さの濃いチョコレートパウダーを入れるのが今回作るシフォンケーキであり、利久が特別気に入っているお菓子だった。
材料を混ぜ合わせ、慣れた順序で手を進めていく。こうやっている時は、ただ作る事に没頭出来るから好きかもしれない。何の感情も動かずに、出来上がっていくのを待つ作業だけど、オーブンに入れて冷ます時間になると現実に意識が引き戻されていった。
「後は待つだけ、と」
焼きあがった香りと出来栄えに満足して、利久が作業している部屋に戻れば、相手は横になって寝ていた。作って欲しいと頼みながら、食べる本人はすっかり夢の中だ。
机の上に散らばった資料を手早くまとめて端に寄せる。
床にも何枚か落ちていた紙を拾い、それも資料の上に乗せた。
捺は膝をついて、そっと利久の顔を覗き込む。少しだけ眼の下にクマを見つけ、本当に疲れていたんだなと実感させられた。なのに、こうやって条件を受けてくれた事に感謝しつつ、同時にこれからの事を考えると、どうしようかと悩んだりもしてしまう。
成就するのかどうかは、五十嵐の性的志向にもよるし、好みにも寄るだろう。恋愛ばっかりは、性別という壁がつきまとってしまうから。
「……でも、もし付き合うことになったら、どうするんだろうね」
ぽつりと落としたのは、自分に対してなのか利久に対してなのか。
答えが出ないまま、それでも出した条件をちゃんとこちらも返していかないといけない。
気持ち良さそうに眠っているのを起こすのが躊躇われて、もう少しだけ寝顔を見つめる。そっと指先を伸ばし、癖のある赤みがかった髪の毛を軽くひと房つまんで唇を寄せていく。けれど次の瞬間、一瞬だけ身じろいだ体にぴくりと動きを止める。
「…ん、出来たんか?」
「あ、うん。あんまり気持ち良さそうにしてるから、起こすかどうしようかと思ってたんだよね。ここに寝ぐせとかついてるし…」
それは、ちょっとした言い訳。
「そっか。悪かったなあ。最近全然睡眠時間足りんくて。けど、やっぱり捺の傍やと安心するんやな、気が緩んでまう」
「それは良かったよ。ケーキ出来たけどすぐ食べる?」
「もちろんや。それを楽しみで来たんやからな。やっぱり捺が作るシフォンが一番美味いって思うわ。この前、会社で貰ったやつ食べたんやけど、ぼそぼそしてて美味くなかってん」
思い出したのか、利久が微かに苦笑いをした。
それに比べて捺が作るのはしっとりとしていて、甘みのある味。それが利久には好評らしく、すぐに用意するからと言えば、いそいそと資料を鞄にしまう。
それを眺めながら微苦笑を浮かべ、捺はほっと一息ついた。
(もう少しだけ、この時間に浸らせて貰ってもいいよね)
◇ ◇ ◇
仁科と利久が初めて接触してから、週末の度に利久はきっちりとミスルトに顔を出す様になった。
相変わらず仁科の演技は続いていて、最近は手を握ったり腰を抱かれたりしているので、さすがにやりすぎなんじゃないかと言ったばかりなので、今日は大人しくしていた。スキンシップの度合いが激しくなってくる度に利久を挑発しているのは明らかで、そこまでしなくてもいいのにと嘆息してしまう。
(だから、こうやって毎週来てくれるんだけどね)
平日はさすがに仕事があるからと、しきりに謝ってくる利久に、ツキッと胸が痛む。そろそろ本当に力にならなくてはと、捺はコーヒーを飲みつつ、仕事をしながら捺が終わるのを待っている利久の傍に寄り、エプロンから取り出した二枚のチケットをテーブルの上に差し出した。
「これ、よかったら使ってよ。知り合いから貰ったんだけど、五十嵐さん興味ありそうじゃないかな。最初は個展とか美術館とか、そういった所がいいんじゃないかなって思ったんだけど、デザイン事務所っていっても、あの人代表なんでしょ。だったら毎日が忙しそうだし、それだったら植物園とかでゆっくりさせてあげるのもいいんじゃない? それに、ここでちょっとした生け花展があるから、何かのアイデアのヒントになるかもしれないしさ」
「けど、これ捺に来て欲しいからくれたチケットやろ。俺が使うわけには…」
「いいんだよ。ここのバイトもあるし、仕事も一件入ったから、ほんとに行ける時間がとれないし、それじゃチケットが可哀想でしょ。それに、誘うきっかけ作ってあげてるんだよ、僕は」
急遽、大学時代の知り合いから頼まれた会社のパンフレットの表紙の納期が結構短い為、時間がとれないのも事実だった。
「そうやな。そやったらありがたく使わせてもらうわ」
「よしよし、それでいいんだよ」
念押しすると、ようやく納得した利久がチケットを受け取る。
誘う相手を思い出しているのか、利久の眦が微かに下がっていく。
「あんまりしまりのない顔してると、五十嵐さんに呆れられるよ」
「そんなに、にやけた顔しとった?」
「僕が呆れるくらいにはね。さて、今日は仁科さんも帰ったし、利久も疲れてるなら帰ってゆっくりした方がいいと思うよ」
さすがにかなり無理させているのは自覚している。カフェは憩いの場所なのに、その場所にまで仕事を持ち込みさせてしまってるのだから。
「なあ、そやったら捺はどこに行きたい? お礼にってわけじゃないけど、こうやって約束守ってくれとるし」
「え、でも十分してもらってるよ。今日もだけど、いつも仁科さんから助けてくれてるでしょ。だから、それで十分だよ」
「けど、それやったら俺が納得いかんねん。なあ、なんか欲しいもんとかないか?」
突然言われても特に浮かんでこない。別にそういうつもりで渡したものじゃないので、どう返していいのか悩んでしまう。
(欲しいものって、急にそんな事……)