その腕に焦がれて
友人から片思いの相手へとなった後も、利久の隣にいられると当り前の様に受け止めていたから。
けれど、それは絶対的なものじゃなかったんだと、今回の事で痛感させられた。
「ねえ…利久が本当に好きな相手って……」
「この状況で分からへん方がおかしいで」
囁かれる苦笑に甘さが含まれていて。
だから、と勇気を振り絞って僅かに震える唇で答えを返す。
「僕で…いいの?」
「男とか、そんなん考えるよりも、捺以外は考えられへん。……けど、ようやく気付いた鈍い奴でごめんな。ヒントは目の前に転がってたのに、俺は全然掴めへんかった。そのまま素通りして流れていったものも沢山あるやろうけど、シフォンケーキでやっと気づけた」
それは捺の得意なものだ。
利久が落ち込んでいる時、元気になりたい時は甘いものを欲しがる。その度に、捺に焼いて欲しいと頼んでいたのが、どうしてヒントになるのだろう。理解しがたくて、ようやく緩んだ腕に体を少しだけ離し相手を見つめた。
「捺が好きなのはプレーン。けど、得意なんはチョコレートやって前に言ってたやろ。しかも、ちょっと甘めの」
「確かにそうだけど」
それがどうして捺の気持ちを知るきっかけになったのだろうか。
「俺がチョコレートでも甘いのが好きやって知ってて、俺が色々へこんだ時にはいつもあのカフェや捺の部屋で、ケーキを出してくれてた。他にも沢山種類はあるのに、決まっていつもな」
仕事が上手くいかない時、気分が落ち込んだ時。その度に利久は捺にチョコレートシフォンをねだっていた。それがいつの間にか当り前になっていて、だから相手を少しでも元気にしたくて作り続けていたのだ。
相手が少しでも喜んでくれたらいい。
けれど、それは利久限定だった。
捺が癒して大切にしたい相手は他にも沢山いる。けれど、その特別な核の部分に存在し続けているのは、この男だけだから。
「ねえ、今度は僕の話聞いてくれるかな……」
「かまへんで」
捺は小さく一呼吸置いて、乱れそうになる鼓動を落ち着けた。
「……まだ小さい頃だったかな、母さんが作ってくれたのがきっかけだったんだ。泣いてる僕に作ってくれたお菓子がケーキだった。その中でも、シフォンは得意でさ…それが好きで、わざと拗ねたりしてたな。疲れた時とか落ち着きたい時って妙に甘いものが欲しくなったりするでしょ。それと同じ原理なのかは分からないけど、少なくとも食べた後は笑顔になれたんだよね」
けれど、高校の時に自分の息子がゲイだと知った途端に、露骨に嫌悪する様になった。会話もなくなり、家族円満だった家庭をぎくしゃくさせてしまったのだ。
だから作る時には二つの感情が混ざり合う時がある。
甘い記憶と苦い記憶。
それでも、特別な想いが詰まったお菓子だから。やっぱりこれを食べると元気になれる。そして、その元気を利久にも分け与えたいという、自分勝手な感情があったんだと伝えれば、くしゃりと柔らかく頭を撫でられた。
「そっか。だから俺はこうやって今も元気でいれるんやな。捺が愛情をくれるから、毎日を過ごしていける」
「少しは役に立ってたかな」
それなら、自分の作ってきたものが無駄じゃないと確信出来る。ずっと好きで、好きでたまらなくなったのは大学受験の時。毎日頑張っている相手の疲れをちょっとでも取り除けたらと、考えた時に恋を自覚した。それまでは友情だった筈なのに、いつの間に形を変えていたのだろうか。
一度象られたものは、だんだん明確さを表していく。違う大学に行っても交流が途絶えなかったのは、必死につなぎ止めておきたかったからかもしれない。
「当たり前やろ。……けど、捺はほんまに俺でええんか?」
今度は自分が言ったセリフを利久がそのまま返してくる。
「ほんまに今更やけど、正直仁科さんに勝てるなんて思てなかったし、今日かて、改めて捺と付き合う事を伝えたいからミスルトに来いて、わざわざ人を呼びつけておいて。来てみたら本人はおらんし、いきなり捺に聞けってメールで伝えられるし。そもそも、なんであの人が俺のメアド知っとんねん」
「それは、僕の携帯を尚兄が勝手に見たから……だと思う」
というか、十中八九そうなのだろうけれど。
「だって、あの人本気で捺の事好きなんやろ。だからメールで……。て、尚兄て、仁科さんの事か?」
「そう…だけど?」
「けど、仁科さんていつも店では呼んでたやんか。しかも他人行儀やったし」
(え…あ、もしかして利久……何も知らないって事ないよね)
ばらしたからと、それが仁科の嘘だったとしたら。もしかしたら、自分は間違った解釈をしていたのかもしれない。だとしたら、この結果は……と再度反芻してみて、ぼっと顔が赤くなっていく。
(そんなに真剣に想ってくれてるんだ)
嬉しい胸の痛みも有るんだと初めて知った。
だから、ちゃんと説明しなければ。
「…少しでも利久に傍にいて欲しかったから、仁科さ……治兄に協力してもらってたんだ。あの人と僕は従兄弟なんだよ。昔からよく気にかけてくれてさ。今回も、最初は反対気味だったんだけど、最後には協力してくれたんだ」
「そやから、ストーカー役になってくれたんやな」
捺はこくりと頷く。
「ねえ、男だけど利久を好きでいてもいいかな…」
「ええんやないか。さっきも言うたけど、俺かて男やけど捺の事好きやしな」
お互い様やろと、利久が小さく笑みを口元に滲ませた。
「ずっとずっと好きなのは、利久だけだから」
他の誰もいらないと、極端でもそう思う。
利久の眼差しがレンズ越しに柔らかく綻んだのに見惚れていると、すぐさま再びきつく抱き返され、捺は抱擁された腕に自ら身を預けていった。
◇ ◇ ◇
「さすがにそれは厳しいんですが……」
「あれ? 誰のおかげで自分の気持ちを自覚出来たんだっけ」
にっこりと穏やかに微笑んだ仁科に、利久がはっきりと苦笑いをしているのを見つめながら、ただ成り行きを眺めるしかない捺は、少しでも場の雰囲気が軽くなるようにと二人にケーキを差し出す。
仁科が捺の従兄弟だと知らせてから数週間。そして、改めてきちんと仁科を利久に紹介してから、すぐに相手に頼み事をする仁科の神経の太さに、少し感心してしまう。
(いやいや、してる場合じゃないんだけど)
けれど、ビジネス関係となると捺が口を挟む権利はない。
「カラー一ページ丸々使用してもらうのは、こちらとしてはとてもありがたいんですが、ただ、その号のピックアップを仁科さんにしてくれないかっていうのは、ちょお無理かと……。それに、こっちのスケジュールもあるので上が何て言うか…。そやからですね……」
机の上には契約書と書類の紙が数枚。それに利久のスケジュール帳が広げられていた。
「独立開業に合わせてしてもらった方がアピール出来るだろ。それに、五十万部分のお金は払ってるんだから、契約成立じゃないかな」
「確かに広告としてはそうなんですが……」
整形外科医なので、現金をすぐに用意出来るのはさすがとしかいいようがない。利久と会う前に捺は仁科から契約金を見せて貰っていたが、百万は軽く越えていた筈だ。