その腕に焦がれて
大きなクライアントが一人でも多くなるのは、実際利益として会社にとってはありがたい。けれど、顧客が出した全部の注文を「はいはい」と軽く受けるには、利久の立場としては微妙なラインなのだろう。ピックアップの記事も時期的に次回はすでに出来ているだろうし。
悩んでいる恋人に何もできないのが切ないと思っていると、カランとドアが開く音がした。
慌てて接客モードに頭を切り替えてドアに向かい迎えるが、客の姿を見た途端に思考回路が一瞬停止する。
「あ、いらっしゃいませ…って」
グラビアと、あの植物園で遠目でしか見ていない相手が目の前に現れて、とっさに対応が遅れてしまう。
「すいません。ちょっと待ち合わせをしてるんです。先に来ている筈なんですけど……」
目的の人物を見つけたのか、五十嵐は呆れた溜息をつきながら足を進めていった。後姿を眺めていると、仁科が手をひらひらと振っていた。
「咲哉さん、こっち」
「まったく。いったい何で高野さんを困らせているのさ。また君が無理強いをしてるんだろ」
「なんで俺が悪いって決めつけるんですか。それって偏見ですよ」
「どう見たって治がいじめているとしか思えないんだけど。高野さんの都合だってあるんだから、大人としてわきまえる所はしっかりして欲しいんだけどね」
呆れてわざと語尾を強めた相手、五十嵐咲哉に対して飄々とした態度をとっている所から、二人の仲が相当良いというのは伺えるが、接点がなさそうな二人に疑問を持ってしまう。それは利久も同じだったらしく、どうしてここにと捺が抱いていた疑問をそのまま投げかけていた。
「捺もおいで」
仁科達だけで、あとは客がいないのをいい事に、こっちこっちと仁科が招き寄せる。
ちらりと橘を見たが、別に構わないのか「いってこい」と返された。
捺が三人の元に寄ると、五十嵐から先に挨拶される。差しのべられた手に応えると、ふわりと柔らかい笑みを浮かべられて、間近で見た捺は思わずどぎまぎしてしまう。
(やっぱり、綺麗だな)
綺麗というよりどこか中性的な部分を持っているからこそ、そう思うのかもしれない。五十嵐は全体的に繊細な造作をしているのだ。
「紹介するな。俺の恋人の咲哉さんだ。咲哉さん、こっちが従兄弟の佐倉井捺です」
それぞれに紹介されたが、その内容に驚きを隠せないでいると、微苦笑した五十嵐が次の瞬間、軽く仁科の頭をはたいた。
「いってー…。暴力反対なんですけど」
「唐突すぎるんだよ、まったく」
ますます呆れた相手に、こうなる事は予想していたと顔に書いてある気がした。現に五十嵐は恋人だと言われても否定せずに、利久と捺にごめんねと軽く謝ってから、改めて初めましてと捺に頭を下げる。
「そうそう、勝手になんだけど、こないだ植物園でやってた展覧会の写真をCD‐ROMに焼いてきたんだけど、よかったら貰ってくれるかな。それから、君の噂は高野君から聞いてるよ。すごく大事に想われているんだね。」
CDを受取りつつ、戸惑ってしまう。
「え、あの…その」
「ちょっと、何言うんですかいきなりっ」
二人の声が被さるのを楽しげに見ている仁科と五十嵐の余裕に、ますます気恥ずかしくなりながら、いったいどんな事を言っていたのだろうかというのも気になるけれど、何よりも利久が捺の居場所を心の中に作ってくれていた事が嬉しくて、みるみる頬に熱が集まってくる。
「植物園でも、美術館でも。話している会話の端々に、君がいたよ。昔からの友人がって…言う高野君の顔、佐倉井君に見せてあげたかったなあ」
「五十嵐さんっ!」
「高野君が僕に抱いていたのは、憧憬とかそういう種類のものだから、佐倉井君、安心していいからね」
それ以上は言わないでくれと、捺と同じく顔を赤くした利久に、くすくすと五十嵐が笑う。
仁科同様、種類は違うけれど自分たちではどうやっても勝ち目のない部類に五十嵐は入るなと結論付けて、いっそ感嘆な溜息をついてしまう。仁科は二人の様子を眺めた後、捺に目を向けてにやりと笑みを浮かべた。
捺に告白した時といい、利久にばらした事といい、全部が仁科の演技だったと知り、ただただ感心するしかない。
(…まったく、治兄は昔から僕に甘いんだから)
ずっと焦がれて。焦がれ続けた相手に好きだと伝えられる幸福感。
多少どころかかなり振り回された気がするが、それら全部を許してしまうくらいに、仁科にはすごく感謝している。
(今日は、うちに来てくれるかな)
疲れた時は、決まって顔をみせる利久。
捺は掴んだ腕の暖かさをそっと思い出し、小さく微笑んだ。
再びドアの開く音がして捺は「いらっしゃいませ」とくるりと踵を返すと、火照った頬をさすりながら、接客モードに意識を戻し現実に足を踏み出していく。あの二人に囲まれた利久には悪いが、今は自分の仕事をするのが一番だ。
捺は笑みを浮かべると、一歩を踏み出していった。