心中未遂
浜木綿の名を教えられたのも、海岸沿いに咲くことも、夕方付近に一番匂いが強くなることも、そんな投げられた会話の内の一つだった。それがすべてではなかったけれど、統一性のない話題の中で、彼女が唯一何度も口にしたのは浜木綿のことぐらいだ。思い出す彼女の姿と白い花弁がセットになってしまうのは、そのせいなのかもしれない。
そんな何とも言えない空気の流れる下校時間は、真由にとって一種の精神鍛練だった。けれど、人の目とは不思議なものだ。いつの間にか、クラスでも少し浮いた存在であった彼女と一番の仲良しという認識が広まってしまっていた。
おかげで用事の仲介をさせられることが多く、自然交わす言葉が増え、時間も長くなっていった。
相も変わらず彼女のことは苦手だったけれど、下校時間の二人きりの空間には徐々に慣れていくことができた。少なくとも、いつもの大人びた様子からは考えられない無邪気な顔に、新鮮さを感じられる程には思考は落ち着きを取り戻していた。
それに。カードの上に手をかざす。赤インクの滲んだ掌に、プリズムでも通したような陽光の欠片が滲んだ。手を動かして、光の滲み具合に目を細める。照らす光には温かさも何もない。ただの残骸だ。
本当のことを言えば、浜木綿を眺める彼女の後姿を見つめている時間を真由は嫌いではなかった。彼女自身は相変わらず苦手だったけれど、夕日に沈んだ無防備な背中を眺める行為自体は、不思議な満足感を与えてくれていた。
おかしな距離感を保ったままの、一種平穏ともいえる時間が終わりを迎えたのは、酷く突然だった。それはちょうど、夏の暑さの中に浜木綿の匂いが一際強く感じられた日のこと。しかしそれ以外には、これと言って変化なんてない夏の一日のことだった。
ねぇ、どこか遠くに行ってみない?
それまで、いつものように浜木綿の白い花弁を眺めていた彼女が唐突にそう呟いたのだ。その日もぼんやりと自身と同じ制服に包まれた背中を眺めていた真由は、思考に割り込んで来た言葉を上手く呑み込みきれなかった。
意味が分からず聞き返せば、振り返った彼女が真っ直ぐにこちらを見つめるものだから、あの瞬間真由は滑稽な程にうろたえた。
ここではない、何処か遠くだよ。その戸惑いを感じ取っていたのか、彼女はゆるりと微笑んだ。
優しく囁かれた言葉が耳に触れるか触れないかの間に、真由たちが立っていたのとは反対のホームに電車が滑り込んできた。吹いた風にあおられて、彼女のセーラーやプリーツスカートの裾が夕日の中ではためいていた。
田舎の小さな駅だ。左右のホーム以外には、待合室一つないような簡素なプラットホーム。右のホームには家へと運んでくれる電車が、左のホームにはそれとはまったく逆の町の外へと続く電車がやってくる。
左側に停車した電車の車体には、緑とオレンジの二本ラインが輝いていた。その車体が、最終的に何処へ辿り着く筈のものだったのか。今となっては、真由も覚えていなかった。
ただ、その扉をくぐったら町に戻ることはもうないのだろうと。漠然と感じていた自分がいたことは、覚えている。彼女がいつも見つめる、ここではない何処か遠くに行ける、まさしく魔法の電車だった。
重い空気の音を響かせて、電車のドアが開かれた。真由の知らない世界へのドアが、目の前に悠然と開いていたのだ。踊るように軽い足取りでその扉の前へ進んだ彼女は、吹く風にスカートの裾をふわふわと遊ばせて振り返った。風の中に匂い立つ浜木綿の香りが充満していて、周りにあるのは空気ではなく浜木綿の花束か何かのようだった。
黄昏に服も腕もすべて染め上げて、彼女は再度問いかけを口にした。伸ばされた腕が、他ならない自分に差し出されている。理解すると同時に、真由の頭は思考を完全にストップさせてしまった。何を言ってるのかと、聞き返すだけの余裕もすっかり消えてしまっていたのだ。
ただそこに答えでもあるかのように、黄昏色に染まった彼女の手をじっと見つめていた。その手を取ることも拒否することもせず、ただじっと。
彼女はそんな真由を急かすことはしなかった。それは、電車の発車ベルが鳴った時も変わらず、何も言わずに静かに扉の前に立っているだけ。かえってその沈黙が真由には重く感じられた。
呼吸を繰り返している筈なのに、酸素が上手く体を循環していない。浜木綿の香りばかりが血管の中を行き来しているようだった。
結局発車ベルが甲高く鳴り響き、その余韻が空へと吸い込まれていってもなお真由は動けずにその場に突っ立っていた。重々しく扉を閉じた電車は、ゆっくりと走り出して、そのまま夕日の中を走り去っていってしまった。町の外へ、と。
ホームから去っていく電車の後姿を見送って、彼女はいつもの調子で、行っちゃったねと呟いた。差し出されたままだった手が戻される時になって、ようやく真由の体は金縛りのような圧迫感から解放された。
解放されたと思っても、ただ一言「ごめん」と口にした以外に何もできず、結局解放される前と何ら変わりはなかったのだが。
掠れた声で呟かれた言葉に、それでも気にしていないと微笑んだ。彼女の動きに合わせて、腕を伸ばした時と同じように裾がふわりと揺れた。
次の日学校で会った彼女は、やはりいつもと変わりはなかった。窓辺に座り、つまらなさそうな顔をしては空ばかり眺める。これまでと、何一つ変わらない生活だった。
変わったのは、二人の時間だけ。不可思議な二人の下校の時間だけが、ぽっかりと消えてしまった。日常の一つになりかけていた習慣は、やはり異質だったのだ。
クラスで会えば普通に言葉も交わすけれど、それ以上はない。喧嘩でもしたの、と幾人かに聞かれたが、何と答えていただろうか。なんてことはない。ただ元の関係性に戻っただけだったのだ。
一緒に帰らなくなってみて初めて気付いたけれど、そもそも下校時間が被っていたのが不思議だった。そもそも、部活のある真由と帰宅部の彼女が下校の時間が同じになる筈がなかった。
それじゃあ、どうして。疑問に思うも、その答えを彼女に聞かないまま真由は県外の大学に進学し、彼女とはそれっきりだ。答えは今でも分からないまま。連絡先なんて知る由もなかった。人伝に聞いた話によれば、彼女は高校卒業後にそのまま地元に残ったらしい。
「彼女、町の中でも有力な地主さんとこの娘だったんですよ。しかも、長女で男兄弟もいなかったから家を出ることができなくて。他所から旦那さんをもらって、それで……」
それで、その後に言葉が続かない。真由が言葉を探し、再度口を開こうとしたその時。もうすっかり日が沈んでしまって、輪郭もおぼろげな影が唐突にソファから立ち上がった。薄暗くなった室内に、職員室からの光がぼんやり扉の刷り硝子越しに滲んでいた。