心中未遂
ええっとなどと呟きながら、視線を泳がせる。あちこちに言葉を探して見るが、これといっていいものが見つからない。焦りばかりが募り、真由はつい昼間児童たちに言った注意をなぞってしまった。
「ひ、人と話す時はその人と同じ目線で、ちゃんと目を見て話さないといけないんですよ」
「……ご立派な心意気だな。そこにあんたが立って、俺に合わせるという選択肢はないのか」
「館川先生はいつも私と視線も合わせないで話すから、私が合わせてるじゃないですかっ。今回くらいは譲歩してくれても罰は当たらないと思います」
苦しい言い訳なのは重々承知だ。むしろ、言い訳にすらなっていない。ただの我儘だ。けれど、真由は頑として首を横に振った。分かっていながらも、我儘を押し通さずにはいれなかったのだ。ざわざわとした苦しさを、振り払いたい一心だった。
もしもこれが春や秋や冬なら、館川の言うとおりに真由が立って彼に合わせていたことだろう。しかし、今は春でも秋でも、ましてや冬でもない。夏なのだ。故郷では甘い香りが海岸沿いに満ち満ちている、そんな季節だ。
あの日と同じ、茜色から紺色、そしてうっすらと残された青色のグラデーションを眺めるなんて、そんなことはどうしてもしたくなかった。できないと言ってしまっても、よかった。
「それはいつもいつもご足労おかけして、申し訳ない」
「これぽっちもすまないなんて思ってませんね」
「随分なこと言うな。あんたは俺の心情でも読み取れるのか」
言葉のわりに不快そうな顔もせずにすんなり窓枠から背を離すと、館川は真由との距離を軽い足音で詰めた。そしてタイミングを計って拾い損ねていた落し物を摘むと、これまた興味なさそうにそれを一瞥して、ソファに長身を沈めた。
「そんな簡単に読み取れるなら、日頃から苦労しません」
「そうだな。俺も最悪児童に読み取られることがあっても、あんたにだけは勘弁してもらいたい」
対面に座ったというのに、相変わらず館川はこちらを見ようともしない。室内に並ぶ食器棚を眺めているようだった。ほら、とおざなりな手つきで彼は拾い物を差し出した。未だに噛み合わない視線とその態度に、真由はむっとしながらも素直に受け取る。そして、苦々しくありがとうございますと呟いた。
目の前に突きつけられるような形になったカードの表には、やや筆力の高い文字で自分の名が書かれている。差出人の名は書かれていなかったけれど、左端に書かれていた住所は、昔真由が暮らしていた町のものだ。裏返した面に、本文らしい本文は書かれていない。
そこには、あの白い花が今日みたいなグラデーションの空の下で、夕日の赤に染められて風に揺れる様がプリントされていた。真由はそっとその花弁に触れてみる。当たり前だが、幼い頃に触れた花弁の感触などそこにはない。似ても似つかないただの紙の質感しかしなかった。
写真の上半分には、太陽を飲み込んでいく水平線が広がっている。飲み込まれていく直前の太陽は、その小ささに反比例して怖いくらいに真っ赤だ。このまま海まで燃え上がってしまいそうな程に。
随分故郷から離れたところに来てしまったのだと、指先の感触を確かめながらしみじみと思う。窓の外、空の色はこの写真と似てはいたけれど、ここには海もなければ、水平線に飲み込まれていく太陽も匂いたつあの花も咲いていない。
「館川先生は、この花ご存知ですか?」
暗くなってしまった室内で、独特の質感を持ったポストカードの表面が光を放つ。差し込むごく僅かな光の残滓でさえ、貪欲に受け取っていた。館川は微かに目を細め、花には明るくないとカップの底に零すみたいに小さく返した。
「故郷に咲いていた花だったんですが、浜木綿(はまゆう)って言うんです。私も昔、同級生の子に教えてもらうまで名前なんて知らなかったんですけど」
舌に言葉を乗せた途端、「ねぇ、知ってる?」と彼女が目蓋の裏で微笑んだ。囁かれた声が、今も鼓膜の奥にこびり付いている。
それだけじゃない。あの日の会話の一つ一つ、顔を寄せた時に香った制汗剤のレモンの香りも、睫を伏せた影さえも克明に覚えている。
手の中のポストカードに描かれた景色すべてを、真由は知っていた。水平線に沈んでいく太陽も、空のグラデーションも、それに染められる浜木綿も。すべて、記憶の中のある一枚の情景に収束するのだ。
そっくりなのだ、あの日の情景はこの写真に。そこまで考えて、いや、と首を横に振った。そっくりなのは、写真の方だ。あの日あの時の情景を切り取ってしまったみたいに同じだ。唯一違いがあるとすれば、ここに真由と彼女がいないことぐらいだ。
伸ばされる腕と、静かに閉まっていく電車のドア。蘇る匂いたつ浜木綿の香りに、握り込んだ拳の内側で爪を立てた。懐かしさと共に胸の内側に湧き上がったのは、どうしようもない苛立ちだった。懐かしさと苛立ちが表裏をなしているなんて、酷く可笑しな話だ。けれど、肺を中から引っ掻く感情のそれ以外の名を真由は知らなかった。
「いつもクラスの後ろの方でつまらなさそうな顔をして、窓から空ばかり見ている子でした。私、それが何故だか分からないんですけど無性に嫌で嫌で仕方なかったんです。だからさっきはついむきになってしまいました」
すみません。小さく落とされた謝罪に、彼は表情一つ変えなかった。ただ一言、相槌を打っただけ。その打ち方も酷く事務的な物で、もしも他のことを言ったとしても、彼は同じように返したのだろうと想像がついた。
黙って真由の手元を見やる館川の瞳は、黒々としていて彼が飲んでいるコーヒーの中身のようだった。あまりにも静かな瞳は、凪いだ水面のようだ。
周りのことを、何もかも鏡のように綺麗に映し出してしまう。それなのに、水の底に何があるのか、少しも覗かせてはくれない。
そんな所が、なんだかあの子にそっくりだった。
「特別仲がいいわけでも、悪いわけでもなくて。喋りかければ会話も続くんですけど、それ以上に発展しない間柄で。良くも悪くもただのクラスメートだったんですけどね、どうしてか帰りが一緒になることが多かったんです」
露骨に表情をしかめる程、彼女が嫌いなわけではなかった。だけれど、やはり苦手意識が先に立ってしまって、彼女よりもゆっくりとした足取りで帰り道を歩いた。それでも決定的な距離ができなかったのだから、彼女も真由の足取りに合わせていたのだろう。今思えば、微妙な距離を保ちつつの随分おかしな下校風景だった。
つかず離れず、そのくせ特に会話が弾むこともない。電車を待ちの人のまばらなプラットホームで、ぽかりと浮いた空白にいたたまれず、視線を泳がせてばかりいた。
あの子は、そんなことおかまいなしだった。特にこちらに視線を向けることもせず、ただ時折思い出したように言葉を投げかけてくる。おかげで、真由は別な意味で気が気でなかった。