小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

心中未遂

INDEX|1ページ/5ページ|

次のページ
 

 夏の時期になると、いつも思い出す一つの光景がある。
 潮風が吹く線路沿い、日没間際に強い香りを発していた花とその細く垂れ下がった白の花弁を眺めていた小さな後姿だ。
 年中磯の香りが強かった故郷でも、暑さが盛りの頃になるにつれてあの花弁からは甘ったるい香りが匂いたつ様になっていった。下校時間の夕方ともなると、水平線に沈んでいく太陽の光の下で白い花弁とあの香りが息苦しい程だったことを覚えている。

 あまりに身近に咲いていて知ろうともしなかった花の名を教えてくれたのは、あの後ろ姿の少女だった。海沿いに咲く花なのだとどこか得意げに口にした声を思い出し、真由はふっと小さく息を吐き出した。両手にすっぽりと納まっていたカップの中身が、それにあおられ同心円状に輪を広げて震えた。
 故郷から遠く離れ、見かけることも香りをかぐこともなくなった花は、しかし夏が巡る度に真由の脳に蘇る。むしろ年を追うごとに色を加えられ、より鮮やかになっていくほどだった。故郷の風景なんて今となってはぼんやりとしか覚えていないのに、花の咲いていた周囲とあの後ろ姿ばかりはっきりと思い出してしまう。一種のルーチンワークなのかもしれない。

 それが良いことなのか、悪いことなのか。そんな曖昧なものを考え出してしまえば、見つからない答えを求めて、ぐるぐると同じ場所を廻る羽目になる。だから、真由はいつも考えの途中で回路を意図的にぶつりと閉じてしまうのだった。
 分かっているのに、考えが頭に過ぎるのは止められなくて学習能力がないなぁと我がことながら呆れてしまう。
 思い出して何度その記憶の表面をなぞってみたところで、なんの得もない。いつもいつも同じ所をなぞっては、暗い感情を持て余してため息をつくばかりなのだ。脳裏によぎる白い花弁とは、正反対な心持ちだった。穏やかに笑う声を思い出し、きゅっと胸の辺りを掴まれたような感覚に頭を緩く左右に振る。

 懐古などと呼ぶには、自分のこの反応はあまりにも似つかわしくない。思い出というものは、もっと胸躍るようなものではなかっただろうか。鬱々と沈みそうになる意識を掬いあげようと他の記憶の引き出しを探ってみるも、結局最後に行き着くのは白い花弁とあの子の背中だった。
 不毛なことをしている。長々とため息をついて、真由は考えることを辞めるという最終手段に落ち着くこととなった。吐き出した呼気を補うように、カップの中から立ち上る湯気を吸い込んだ。
 ミルクと砂糖を溶かしたコーヒーは、淡く滑らかに表面を輝かせていた。甘い湯気を肺一杯に吸い込んで、胸の中にわだかまる黒々とした元凶を包み込んだ。そうすれば、暫くの間、喉元を塞いでしまうような息苦しさを誤魔化すことができるのを知っていた。

 かちゃり。静まっていた部屋の空気を、誰かが無遠慮に破る。好きなようにソファに腰掛け休憩を満喫していた真由は、反射的にマグカップに口を付けたまま振り返った。死角になっていた壁に視線を向け、思わず咳き込んでしまう。黄昏色の空気に満たされた室内を覗き込んでいた彼と、音が聞こえそうな程ばちりと目が合ったのだ。
 鼻の痛みに、小さく何度もむせる。しかしとうの驚かせた本人はと言えば、そんな先客の様子など欠片も気にせず、そのままずかずかと室内へと入ってきた。
 慌てて真由はだらしなく伸ばしていた両足を揃えて、背筋を正す。入ってきた人物に動転して、行動に移すまでに脳と神経との間で若干のずれが生まれた。彼はそれにちらりとも視線を向けなかったのに、空気で狼狽を感じ取ったのだろう。


「どうせ直すなら、扉の音がした時にとっとと直したほうが良いんじゃないか、平岡先生」


 と、マグカップにお湯を注ぎながら淡々と言った。その揶揄と呼べる色さえない言葉に、一瞬にして頬に熱が集まる。何とか誤魔化そうと、真由は幾度も深呼吸を繰り返す羽目になった。しかし、それさえも相手にとってはどうでもいいことなのだろう。カップを片手に振り返った顔には、これといった表情は浮かんでいない。
 真由の顔を眺めても詫びることもなければ、笑いもしない。ただ顔の上を滑って、そのまま風景の一部として認識しているのかもしれなかった。そう思ってしまうくらいに、彼の瞳には何かを意識して見ようとする動きが少なかったのだ。


「ちょっと、考え事してたんですよ。館川先生こそ、入る前にはノック位してください」
「いちいち休憩室にノックするって、馬鹿げてると思うがな。全員が気軽に使えるから休憩室なんだろ」


 相も変わらずこちらを見ようともしないで、窓枠に体を預けたまま館川は地平線に沈んでいく太陽を眺めていた。眺める、という行為がこれほど当てはまる人も中々いないのではないだろうか。
 面白いのか、つまらないのか。その表情からは何も伺えなかった。それが、そのどこを見てるとも分からない視線が、折角中断していた記憶の一片に引っかかった。引っかかるだけなら良かったのだけれど、まるで種の詰まっていた房が弾けるみたいに、そこから次々と記憶が溢れ返ってくる。

 どこを見てるの。今よりも幼い自身の声に、振り返った彼女の笑みが脳裏にまざまざと蘇った。無意識にカップを掴む手に力が入る。
 いつもなら、口で館川に勝てるはずもないのだから、特にそれ以上突っかかるようなことはしない。だが、ざわざわと折角誤魔化していた息苦しさが込み上げてくるのだ。甘い液体を飲み込むけれど、今度は誤魔化されてくれない。喉元に絡み付いて、嫌な撫で方を繰り返すばかりだ。


「館川先生、こっちに来て座ってください」


 片手をテーブルの上に心持ち強めに置く。しかし余裕のなさからか、思いの外手に力が入ってしまった。そう気付いたのは、卓上の砂糖入れがガタッと強く苦情を訴えったから。波及した力に、軽い音をたてて真由の前に伏せられていた紙切れが落ちた。乾いたリノリウムの床の上を滑ったそれは、不満そうに天井を見上げている。
 想定外の出来事に、元凶である真由自身が驚いてしまった。落ちてしまったものと館川の顔を交互に見比べる。重苦しい沈黙の末、体を縮ませ「すみません」と小さく呟いた。


「いつも思うんだが、あんた自分で自分を追い詰めることばかりしてないか」
「分かってますから、あえて言葉にしないでください」


 いっそ、笑ってもらった方がどれだけ楽だろう。行き場所の定まらない手を持ちあぐねて、真由は俯いて拳を握った。こんな時ばかり、館川の瞳は口よりも遥かによく心情を語る。その視線を真っ向から受ける自信がなくて、真由は顔を上げたはいいものの館川の顔をまともに見れなかった。


「で、平岡先生」
「なんですか」
「理由を聞いているつもりなんだけどな。まさか手を打ち付けたいがために、そこに座れと言ったわけじゃないだろ」


 にやりとも笑わずカップを持った手でそこと指差され、真由は内心慌てた。感情の赴くままに行動に移してしまったために、これといった理由を用意していなかったのだ。いや、理由はあるにはある。だけれど、それをそのまま口に出すことに戸惑った。
作品名:心中未遂 作家名:はっさく