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LOVE HOTEL

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 髪の毛が額に貼り付いている。手櫛で払うと、指先が濡れる程、寝汗を掻いていた。




 決められた場所に座っておかあさんや弟の真似をしている間に、自宅での葬儀は淡々と進行していった。
 随分前からこの日の事を覚悟していたのだろう。二人は時に笑顔さえ見せながら、参列者のお悔やみに応えている。何も知らなかったわたしは、微笑む事すら出来ない。これが映画のワンシーンなら、フィルムがロールアウトしてしまう前にちゃんと涙を流したり、零さずにずっと目の中に溜めておいたりも出来るのに、今のわたしはどんな顔でここにいていいのかさえ分からない。
 読経の声が、わたしを責める呪文のようだ。罪悪感に俯きながら、横目で弟の成長を感じた。札付きの不良だった弟が、もう二児の父になろうとしている。サラリーマンには見えないけれど、彼なりの人生を一歩一歩進んできた自信が、その言葉や態度から滲み出ている。
「アキラじっとしてろ。今度したら叩くぞ」
 ぐずって弟の服を引っ張り出した甥っ子の名前が、やっと分かった。弟もまた、息子を殴ったりするのだろうか。産まれて来る子供は、男の子だろうか女の子だろうか。もし女の子で、弟がおとうさんの仕事を継いでいたら、その子も思春期に傷つくのだろうか。
 出棺になって男達がおとうさんを担いだ。位牌を持ったおかあさんの後ろについて表に出ると、東京ではあまり見なくなった仏壇みたいな霊柩車が、金色の扉を開いて待っていた。

 東京に出たわたしは、別人になった。
 着いたその日に新しい服を買い、着てきた服を捨てた。都会を歩いているとそれまでの十八年の人生が、全て東京に来るための修行期間だったように思えた。田舎にいる時から密かに練習していた標準語を使い、同級生にも自分から話し掛けたりした。タコスとかペペロンチーノとかナシゴレンとか、初めて食べるものをそれと気付かれないように注意して咀嚼し、味噌汁のシジミは、ダシと割り切って食べないようになった。
 数ヶ月後には同級生の中で仲良しグループが出来て、その内の一人とキスをした。適度に真面目で適度に砕けた東京生まれの彼は初体験にぴったりの相手に思えたけれど、わたしはすぐに彼をふった。理由は、わたしをラブホテルに誘ったからだ。渋谷にあるそのホテルは〈シャングリラ〉という名前で、洋館風の形をしていた。自動ドアを入ってすぐの所に水槽があって、赤い魚が動いていた。わたしはそんな事で取り乱したりしないつもりだったけれど、初めての場所がそこになると思った途端、パニックを起こして男から逃げた。
 初心だった。一度崩れた恋愛関係を修復する経験と能力が、その頃のわたしには足りないどころか全くなかった。彼を避けている内に他の仲間との関係も不自然になり、何を言おうか考えて見付かった言葉を頭の中で東京弁に訳している間に、何も言えないまま会話から取り残されていた。
 夏休みに入り、研修先で知り合った撮影スタジオのスタジオマンと付き合い始めた頃には、学校を辞めようと決めていた。スタジオマンの知也は九州の田舎の出身で少しだけ言葉に訛りがあったけれど、わたしは彼に抱かれた。左耳に三つピアスを入れた長髪の知也は楽器をカメラに持ち替えたミュージシャンのようで、垢抜けていた。知也のワンルームマンションは、風呂場がモノクロ写真の暗室になっていて、部屋の中には彼の撮った写真がたくさん干してあった。現像液の匂いがする部屋で、わたしは音楽や映画や小説やフォトグラファーやファッション、中判カメラのフィルムの詰め方やフェラチオの仕方を教わった。有名なカメラマンのアシスタントになって、技術を盗んで人脈を作ったらニューヨークに行ってファッションフォトの仕事をしたいと言っていた知也の夢が叶ったかどうか、わたしは知らない。

 棺桶が霊柩車に収められ、扉が閉じられた。
 おかあさんが着物の中から紙を出し、喪主の挨拶が始まる。例文集から借りてきたようなありきたりな言葉なのに、わたしは涙を堪えられない。泣く資格なんかないのに。
 霊柩車がクラクションを鳴らすと、参列者たちが目を閉じ、手を合わせる。霊柩車の後に付いて走り出したマイクロバスの窓。そのカーテンの脇から見える人たち。衣裳さんがどれだけ頑張っても作れない礼服の縒れ方。風景の一部みたいに素朴な顔。故郷の作った顔。今日は平日だからか、見物人もいない。報道陣の姿がないのが、自分にとっていいことなのか悪いことなのか、わたしにはもう判断が出来ない。彼らが目を開き始める一瞬前に、わたしは正面を向いた。霊柩車のウインカーが、右に出ている。
 わたしはまた、ブルーシャトーの前を通り過ぎた。




 芸能界に入る事になったきっかけは、ありがちな話だけれどスカウトだった。変な宗教やセールスに引っ掛からないように、街で声をかけられても、早足で逃げていたわたしをしつこく追って来たハイヒールの女が、強引にわたしのバッグに名刺を押し込み、丸めてゴミ箱に捨てたそれを知也が見付けなければ、わたしにはもっと違う人生があったかも知れない。
 裏にタレントの名前がいっぱい書かれたインチキ臭い名刺を広げて、知也は目を輝かせた。マスコミ電話帳で事務所の住所や電話番号を調べ、実在する大手タレント事務所だと確信した彼は前戯もそこそこにわたしを抱き、芸能人とやってるみたいだと言って、いつもより速く果てた。
「どうする?」
 布団の上でそう聞かれるまで、本当にそんな選択肢があると思っていなかった。
「どうするって?」
「けっこうチャンスだと思うよこれ。興味ないならいいけど、もしちょっとでも気になるんなら今しか出来ないことだし」
「そうかな……」
「意外と売れる気もするよ。お前メチャクチャ写真映りいいじゃん。そういうのけっこう大事だよ。スタジオでしょっちゅう芸能人見てるけど有名な人ほどカメラ前で顔変わるから」
「ふうん」
 知也が撮ったわたしのモノクロ写真が、洗濯紐に吊るされて揺れているのを見上げながら、わたしが最初に考えたのは、テレビや雑誌に出た自分を田舎の同級生達が見た時の恥ずかしさだ。
「有名人になっても俺の事ふらないでくれよ」
 わたしの乳首を口に含んだまま冗談めかして言う知也に、ふるわけないじゃんと、笑って答えた。
「わたしなんかどうせ売れないよ」
 でもそれはすぐに、冗談ではなくなった。田舎なんか関係ない。二度と会わないと思えば、知らない人と同じだ。
 やってみよう。
 そう思ったわたしは脱皮して、その日からまた別人になった。




 菊の花に耳まで埋まったおとうさんは、大好きだった煙草やゴルフクラブと一緒に、煙突の先から煙になって上っていった。その空はどんよりしていて、この田舎町に閉じ込めるための、巨大な蓋みたいに見える。夏があった事が嘘だったように、これからこの町は少しずつ冬に向かい、暗い空から湿って重たい雪が降ってくる。
 火葬場の控え室。その窓から見える山々。わたしはこの町が嫌いだった。違う街に生まれた別の誰かになりたかった。自分の理想に近付く度に、それまでわたしを愛してくれた人を、いつも冷たく遠ざけてきた。今、わたしは、誰なんだろう。死んだ後、わたしはどこで、煙になるんだろう。
作品名:LOVE HOTEL 作家名:新宿鮭