LOVE HOTEL
夏休みが終わって暫くすると、不良化して問題を起こす男子や、極端にスカートを短くする女子が現れ始めた。誰かが誰かを嫌うようになり、三人以上に嫌われた人は、あっという間にクラス全員に嫌われるようになった。嫌われる理由は、可愛くもないのに自分を一番だと思っているとか、陰で悪口を言っているとか、誰かの彼氏を狙っているとか、髪や爪が汚いとかくだらないものだったけれど、目立たなければ槍玉にあがることはなかった。平均より背の高い体を少し猫背にしながら、存在感をぎりぎりまで抑えてやり過ごす三年間。目立たなければ、ラブホテルの娘だといびられることもない。思春期の女の子にとって透明人間の生活は地獄だったけれど、いじめられている子に同情することで、何とか耐えることが出来た。わたしは同級生達の心に潜む怪物に怯えながら、ただじっと卒業を待った。
「美江ちゃん、梨剥けたよ」
おかあさんが戻ってきて家具調炬燵の上に、皿を置いた。
「ありがと。いただきます」
名優か大根かの見分け方は、ものを食べながらいかに自然に台詞を言えるかだと聞いた事がある。それを聞いたわたしは密かな特訓の末、噛んでいるふりをしながら実際は食べ物を舌の上に乗せ唾液で充分に湿らせておいて、台詞前に一気に呑み込む技を身に付けた。
ひとかけらの梨を呑み込んで、わたしは言った。
「おかあさん……、長く、帰って来ないで……、すいませんでした」
台詞の最後の方では、口の中がカラカラに渇いていた。
「そんなん改まって言わんといて。気にせんでもいいよ。都会にいるといろいろあるんやろうし」
「ごめん……」
わたしはまた泣きそうになるのを堪えて、少し冷めたお茶を啜る。
「それよりお風呂入らんの? お湯いれておいてあげるか?」
「でも、まだお客さんいるし、わたしも何か手伝わないと」
「もうほとんどみんな帰ったで何も手伝わんでも大丈夫や。おじさんらはみんな離れに泊まるし、もう布団も敷いたで、おかあさんももうちょっとお皿洗ったりやらなんやらしたら休むよ」
「あっちゃん達は?」
あっちゃんと言うのは三つ年下の弟、淳宏の事だ。わたしが中三の時、おとうさんは家の庭を半分潰して離れを建てた。一階に客間と六畳間が二つ、二階に八畳間が二つくっついた部屋と物置き部屋。おとうさんは機嫌良く、離れが出来たらあっちゃんが嫁さん貰って子供出来た時一緒に住めていいやろ、と笑ったが、一年後にそこは、弟の不良仲間の溜まり場になっていた。今にして思えば、弟が不良化した原因の一つにも、家業の影響があったかも知れない。考え過ぎだろうか。
「あっちゃんらはさっき慌てて帰ったよ、美江ちゃん知らんやろうけど伸子ちゃんがいま二人目産まれそうなんや。何やろのお、今死んだばっかやのにまたすぐ産まれるって」
そう言って溜息を吐く間のおかあさんが、一気に老けて見えた。白髪の目立つ髪が、少し薄くなった気がする。堪らなくなったわたしは目を逸らし、頷く。そして、同時に考えている。きっとあっちゃんは、おとうさんとの同居を嫌って、別の所に住んでいるのだろう。弟の嫁、つまりわたしの義理の妹の名前は、伸子。ただ、明日の葬儀で伸子さんに会う可能性はなさそうだ。
「おとうさんは、癌だったの?」
「そうや、肺癌」
「大変だった?」
「まあ、あんな癇癪持ちの人でも最後はおとなしかったわ」
いつも煙草を銜えていたおとうさんを思い出す。ガラス製の大きな灰皿は、吸い殻でいっぱいだった。そしてその灰皿でおかあさんや弟を殴った。わたしがおとうさんから暴力を受けなかったのは、人の顔色を見て空気を読む能力に長けていたから、しかもほとんど自分の部屋から出なかったからだ。
「そっか……」
おかあさんが、また溜息を吐いた。彼女はもう、この無意味に広い家で、一人きりになってしまった。可哀想だと思った。けれど、本当に可哀想なのかどうか、これから先、どうするのが彼女にとっての幸せなのか、わたしには分からない。東京でわたしと暮らしたいなら、そうしてもいい。でもわたしには、そんな提案をする勇気も資格もない気がした。わたしは十年間も、家族を遠ざけて、放ったらかしにしてきたのだ。
「さっ」おかあさんが笑顔に戻って立ち上がる。「ちょっと片付けしてきてまうわ。食べたいもんあったら何でも言うての」
「うん。でも、今はいい」
「ほうか。お風呂はどうする?」
「じゃあ、入ろうかな……」
「そしたらお湯入れるわ。十分したら入って」
「わかった。二階で寝ていいの?」
いいの、の所が、少し訛った。それ以前に、田舎の言葉で話さないわたしは、正しいのだろうか。その事でおかあさんは悲しんでいないだろうか。
「また何言うてるの。いいに決まってるやろ、美江ちゃんの部屋やがの。もう布団も敷いてあるよ」
「さっき見た。ありがと」
「明日は九時に起こせばいいか? お葬式十時からやで」
「じゃあ八時前に自分で起きる。準備は手伝わんでいいの?」
「いい、いい。もうあらかた終わってておかあさんらもやる事ないし、ゆっくりしてちょうだい」
「わかった」
おかあさんは「よいしょ」と言って立ち上がり、膝を擦った。それはわたしが小学生の頃、交通事故にあった時の後遺症だろう。心配に思うほど、自分が嫌いになっていく。誰もいなくなった田舎の夜は静かで、遠くに蝦蟇蛙の鳴き声が聞こえた。
わたしはいったん二階に上がり、パジャマや替えの下着やシャンプーやコンディショナーや化粧水を持って、丁度十分後に風呂場のドアを開けた。脱衣所には、十年前と同じ洗濯機。その上に、きちんと畳まれスエットの上下が置いてある。わたしがここにいた時に着ていた寝間着だ。
先に化粧を落としてしまおうと洗面所に立ったわたしは、また涙が溢れて止まらなくなった。洗面台の棚に並んだ歯ブラシ。その中に、わたしの名前がマジックで書かれたわたしの色、ピンク色の歯ブラシを見付けてしまったからだ。
〈みえちゃん用〉
美江。中屋美江。
それが、わたしの本当の名前だ。
※
お風呂から上がったわたしは、少し迷ったけれど、おかあさんの出してくれた服を着た。
いつもそこに座っていたのに、今はもう落ち着かない場所。パイプベッドに腰掛けて携帯を弄る。せめてこんな夜くらいは東京とつながっていたいのに、何度問い合わせしても、メールも不在着信も来ていない。サンタクロースのイラストがプリントされた水色のスエットを着たすっぴんのわたしは今、泳美でもないし、美江にも戻りきれていない。
カーテンを閉じた窓に近付く。この布を捲れば、ブルーシャトーが見える筈だ。三十路目前の今になれば、家業がラブホテルなんてもうどうって事はないように思える。ラブホテルもアダルトビデオもコンドームもタンポンも、今の世の中には必要な物で、誰かがそれに関わった仕事をしているからこそ、不自由なく生きて行く事が出来る。でも、あの頃のわたしには、このカーテンを開ける事が出来なかった。
わたしのちっぽけな不幸は、高校生になっても続いた。
作品名:LOVE HOTEL 作家名:新宿鮭