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LOVE HOTEL

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 胸が詰まって返事が出来ない。おかあさんは濡れた手を拭き、冷蔵庫から紙パックのジュースを出した。グラスに注がれたそれが置かれた場所は、わたしがいつも座っていた席だ。
「ほら」
 引いてくれた椅子には、プーさんの座布団がかかっている。わたしはわたしの席だった場所に、座ってもいいのだろうか。
「ごめん……」
「何言うてるの。自分の家やのに遠慮せんといて」
 十年間の不義理のごめんは、リンゴジュースのごめんに取り違えられてしまった。甘酸っぱいはずのジュースは重く、罪悪感の味がした。わたしはそれを一気に半分飲んで、垂れてきた鼻を啜った。
「よう帰ってきたのう」
 抱き付いて泣きたいのを我慢して、頷いた。
「もうおとうさん会うてきたか?」
 首を振ったわたしの肩に、おかあさんの手が乗せられる。さっきまで洗い物をしていたからだろう。その手はとても冷たかったけれど、それは紛れもなく、やわらかなおかあさんの手だ。
「ほんなら行こうか、おとうさんのとこ」
「うん……」
 もう、ほとんど声にならなかった。視界の全てに半透明の白い膜がかかったように見える。広いだけが取り柄の家の、歩くとキイキイ音がする板張りの廊下を進んで、わたし達は仏間に向かった。

 親戚連中と近所の人達が赤ら顔でわたしを振り返る。誰とも目線を合わせずに、誰に対してでもない曖昧な会釈をしながら、棺桶の前に正座した。遺影と目が合う。最後に見たおとうさんよりも十年分皺の増えた笑顔が、真っ直ぐにわたしを見ている。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。何万本も針を刺されたように心が痛くなって、声に出さずに必死で謝った。
「美江ちゃん、ほら、おとうさん会ってあげて」
 気が付くといつの間にかおかあさんが隣りで正座している。
「なあ、おとうさん、良かったのお、美江ちゃん帰ってきたよ」
 そう言いながら、おかあさんはわたしの心の準備が出来る前に、棺桶の蓋を開けた。
 粉々に割れてしまいそうになるほど、歯を食いしばった。そうしないと、きっとわたしは叫んでいただろう。痩せ細ったおとうさんは、口と鼻の穴に綿を詰めて、眠っていた。その顔はげっそりと痩せていて、薬の臭いがした。
 涙が溢れてコントロール出来ない。
「よかったのお、ほら見ておとうさん、美江ちゃんや」
 わたしは目を閉じて、手を合わせた。合わせた親指の上で、涙が幾粒も爆ぜた。
 大きな掌で背中を擦られて横を見たら、おとうさんそっくりに成長した、弟だった。わたしたちは十年振りに家族四人揃って、体を寄せていた。
 今やっと分かったけれど、わたしはおかあさんも弟も大好きだし、おとうさんの事も愛していた。それなのにいったい何でわたしは十年間も不義理をしてしまったのだろう。何で冷たくなる前に、おとうさんに会ってあげられなかったのだろう。
 すべて自分のせいだ。いや、半分はあれのせいだ。
 わたしの人生を語る上で、絶対に避けて通れないもの。
 ホテル ブルーシャトー。




 わたしの記憶は三歳か四歳か、多分喋れるようになって暫くたった頃、サザエさんの登場人物で言うとタラちゃんくらいの年から始まる。
 冬の夜、おかあさんと炬燵に入って絵本を読んでもらっているわたし。その年のクリスマスプレゼントだったのかも知れない。表紙がツルツルで、外国のお姫様の絵が描いてあったその本はシンデレラのニセモノみたいな話で、貧乏な召使いの女の子が何故か魔法を使えるネズミに気に入られて、レディになる秘密の特訓をして上流階級のお嬢様に変身してお城に行って、いろいろあってまた不幸せになって、でも最後は王子様と結婚出来てハッピーエンド、みたいな今思えばかなり微妙な内容。でもその頃のわたしが激しくときめいたのは、いんちき臭いストーリーではなくて、その本に出て来るお城。青く輝くそのお城が、わたしの家のすぐ隣にあって、わたしの家の窓からも見えるあの建物にそっくりだったからだ。
 もしかしたら、いや、あそこでもきっとやっている筈だ。わたしの家のすぐ近くで、毎晩夢のパーティーをやっている。ひょっとするとわたしも、この絵本の主人公シンディーヌのように、屋根裏部屋でネズミと秘密の特訓をして、奇麗なドレスと金髪の巻毛を手に入れられるかも知れない。でもわたしの家には屋根裏部屋はない。どうしよう。
 わたしはその日から寝付きが悪くなった。布団に包まるとどうしても、お城の事を考えてしまうのだ。魔法を使えるネズミのウィッキーは、いったいいつ現れるのだろう。耳を澄ましてわくわくしているうちにおしっこがしたくなって、毎朝のようにおねしょで起きた。
 そして時は過ぎ、ワカメちゃんくらいの年になったわたしは、気が付いた。おとうさんは、毎日お城に通っていると。
 朝早く起きてわたしを小学校に送り出した後、おかあさんが向かっていた仕事場は、ドライブインなかやだ。わたしの本名は中屋美江で、ドライブインなかやはウチの店。家を出て国道を左に行ったすぐの所にある。土曜日や夏休みの時は、忙しなく働くおかあさんに煩がられながら、いつもなかやで昼ご飯を食べていた。おとうさんもいつも一時すぎになるとなかやにやって来て、ご飯を食べた。おとうさんは店の中を走り回る弟を怒り、時には平手で殴った。そして食べ終わると必ず、城の方に向かって去って行った。わたしは幾度となく、城の前で消える彼を目撃し、少しずつ確信していった。近所の人が家や店に来て、ご主人いらっしゃいますか? あ、今日はブルーシャトーの方にいますけど。ああそうですかじゃあ寄ってみます。みたいな会話をおかあさんとしているのも、確かに何度か耳にした。
 わたしは焦れた。お城の事を話すと決まっておかあさんの表情が曇り、何となくその話題は我が家のタブーみたいになっていたのに、おとうさんは毎日お城に通っている。一人だけ。自分だけ。夜になると顔が赤くなって酒臭いおとうさんが、お城で何をしているのか。考えるまでもない。舞踏会で遊んでいるに決まっている。おかあさんをドライブインで散々働かせて、その間おとうさんは遊んでいる。たまに二人が喧嘩しているのもきっとそれが理由で、顔が腫れるほど叩かれるまで頼んだおかあさんでさえ行く事が出来ないお城に、わたしが行くのは、きっと当分無理だろう。早くシンディーヌぐらいの年になって、あの場所に行きたい。給食にチーズが出た日はこっそりそれを持ち帰り、押入れや冷蔵庫の裏に隠してネズミに媚を売った。
 暇さえあれば家の前に座って、国道を眺めた。お城から出てきて家の前を通過する車の中には、決まってカップルが乗っていて、その顔は例外なく幸せそうに見えた。
 わたしの中で、お城の存在が、どんどん肥大化していった。

 知ってしまったのはカツオぐらいの年になった頃だ。ある日誰かから言われて突然分かったのではなく、少しずつ、何となく。男女別に分けられ、性教育の授業を受けた頃には、自分が連れ込みホテルの娘だと分かっていた。
作品名:LOVE HOTEL 作家名:新宿鮭