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LOVE HOTEL

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 ピンぼけのおばさんは、やっぱりそうか、と言う含みをもった顔で笑い、柿の木の生えた家に向かって帰って行った。
 玄関は磨りガラスの入った格子戸で、中から光が漏れている。ふと、テレビドラマでよくある台詞を思い出してわたしの足は動きを止めた。その台詞は「二度とこの家の敷居を跨ぐな!」だ。わたしはこの家の敷居を跨いでいいのだろうか。少なくとも、玄関から堂々と家に入る資格は、わたしにはないように思えた。わたしは柿おばさんに振り返られないように注意しながらそっと砂利を踏み、忍び足で勝手口に向かった。

 自分の家に入るのに、泥棒みたいに息を潜めて、ゆっくりとアルミのドアノブを回す。「こんばんは」小声でそう言ってから間違えたと舌を噛み、「ただいま」と言い直した。返事がないのは当然だ。こんな小声じゃ誰にも届かない。
 目の前は短い廊下で、突き当たりの右側にあるはずの台所から、蛍光灯の白っぽい光が漏れている。子供の頃、友達の家に遊びに行くと、その家特有の匂いを感じたように、わたしは今、自分の家の懐かしい匂いを感じている。足元にはおとうさんとおかあさんのサイズの二足のサンダル、泥の付いた長靴二足がきちんと揃って並んでいる。ちょっと昔の日本映画で、高校生の女の子がラベンダーの香りを嗅いでタイムスリップするって話があったけれど、わたしは、わたしの家の匂い、漬け物の匂いでタイムスリップした気がした。
「ただいま」
 靴を脱いで古い板張りの廊下に立つ。返事の代わりに台所から聞こえてきたのは、政子おばさんの声だ。
「ほんなら光代さんわたし終わった皿下げてくるわ」
 政子おばさんはおかあさんの弟の奥さんで、わたしはお喋りな彼女が苦手だった。蛍光灯の光が揺れた。政子おばさんが来る。わたしは反射的に右側にある階段の上に隠れていた。
 自分で自分が嫌になる。ひどいことをしてきた癖に、そのことで責められるのが恐くて潰れそうだ。今すぐに台所のおかあさんに会わなければならないのに、右足は階段の一段上と一段下を行ったり来たりしている。また誰かが台所を出る足音が聞こえる。小刻みに床を叩くスリッパの音。たぶん、おかあさんだ。行け! 行け! 行け! 今顔を出せばおかあさんに会える。そう自分を鼓舞している内に玉暖簾がカチカチと揺れる音がして、足音は通り過ぎていった。
 どうしようどうしようどうしようどうしよう。まず何よりも最初におかあさんに会って謝りたかった。でもおかあさんはたぶん仏間の方に行ってしまい、わたしは真っ暗な階段に隠れている。仏間に行けば他の誰かが沢山いて、落ち着いて話すことが出来ない。こんなことならば家に着く前に一本電話をしておけばよかった。来ることを自分の口からちゃんと知らせておけば、もう少し大きな声でただいまを言えたかも知れない。今からじゃ駄目だろうか。携帯から家の番号に電話して……。駄目だ。もうここにいるのに。家にいて家に電話するなんて異常だし、実家の番号もうろ覚えで不確かだ。
 また息が苦しくなってきた。わたしは左手で口を覆い、一段ずつ階段の上に逃げた。気が付くとわたしの両足は、二階の廊下を踏んでいる。
 二階に上がって最初の部屋。十年前、そこはわたしの部屋だった。合板に木目の壁紙が貼られたドアを開け、そっと中を覗く。
 何か不思議な感じがした。その正体を確かめようと電気のスイッチを入れた。古くなった蛍光灯が二三度点滅し、部屋が明るくなった瞬間、わたしは本当にタイムスリップしたかも知れないと思った。
 目の前にあるのは、十年前と何も変わっていない部屋。
 蛍光灯の紐にぶらさがった、クマのプーさんのマスコット。クリームイエローのカーペット。赤い水玉模様のプリントされた、薄ピンクのカーテン。安っぽいパイプベッドの上にかかった布団のカバーは、青のギンガムチェック。小学校に入るとき買って貰った学習机。本棚にしていたカラーボックスの中には、見覚えのある雑誌や小説が並んでいる。
 わたしは忍び足で部屋に入り、白い洋服箪笥の引出しを開けてみた。目眩がしそうなくらい地味でださい服が、丁寧に畳まれて入っていた。自分でも信じたくないけれど、この服も含めたこの部屋の中のほとんどすべての物は、嘗てわたし自身が選んだものだ。
 恐る恐る学習机に近付く。記憶が確かならば、一番上の引出しの中にあれがある。わたしは目を閉じて、ゆっくりと引出しを開け、見た。四つ切りのモノクロ写真。被写体は高校三年生の、わたしだ。
 全てが、あの頃のままだ。まめに掃除をしてくれているのだろう。目立つ埃もない。自分が高校生に戻った気がして、手の甲を見た。当たり前だけれどわたしの皮膚は十年分歳をとっている。
「どうかしてる」
 呟いて、早鐘を打つ自分の胸に触った。変わっていないのはわたしの部屋だけで、少しだけ増量したわたしの胸には、シリコンが入ったままだ。タイムスリップでも悪夢でもない。これは逃避出来ない、現実だ。
 二人分の足音が一階の床を叩いている。台所におかあさんと政子おばさんが戻ってきた。わたしは大きく深呼吸して、また忍び足で階段を下りた。




 行かなきゃ。行くしかない。行け。行け。行け。
 勝手口のスタート地点に戻ったわたしは背筋を伸ばし、両手で自分の頬を叩いた。そうだ、カチンコの鳴らないテイク・ツーだと思えばいい。目の前には移動車があって、その上ではカメラマンがパン棒を握ってファインダーを覗き、その助手がフォーカスのコントローラーを構えている。用意で動き始めてください。助監督が言いにきて階段の裏に隠れる。移動車の先でモニターを見ている監督が、言う。じゃあ行こうか、次、本番。それを受けたスタッフ達が、威勢良く声を張る。本番! 本番! 本番! 監督が両手を口にあて、メガホンにする。用意!
 わたしと移動車は同時に動き出し、遅れてスタートの声が響く。カメラのレンズを見ないように。移動車との距離が常に一定になるように。わたしは迷いなく歩き、突きあたりを右に曲がる。玉暖簾をかき分けて台所に入る。そして、言った。
「たらいま」
 おかあさん、おかあさんの妹の由子おばさん、政子おばさんが一斉にわたしを振り返った。洗い物をしていたおかあさんと由子おばさんが、双子みたいにそっくりなびっくり顔で、わたしを見ている。失敗してもカットの声はかからない。現実は映画やドラマとは違う。その証拠に、先に口を開いたのは、おかあさんではなくて、お盆を抱えた政子おばさんだった。
「あら、美江ちゃんおかえり」
 白髪の増えたおかあさんが、ゆっくりと笑顔になっていく。わたしはその言葉を聞くまで、息が出来ない。
「おかえり」
「ただいま」
 体が溶けてしまいそうだ。おかあさんの笑顔が優し過ぎて、わたしは消えてしまいたい。泣いちゃ駄目だ。泣くなんて身勝手だ。分かっているのに、鼻の奥に溜まった水が、外に出ようと暴れている。
「疲れたやろ。なんか食べるか?」
「ううん。大丈夫」
「ほんならなんか飲むか? 美江ちゃんの好きなリンゴジュースもあるよ」
作品名:LOVE HOTEL 作家名:新宿鮭