LOVE HOTEL
※
ホテル ブルーシャトー この先20K左
ホテル ブルーシャトー この先10K左
ホテル ブルーシャトー この先7K左
ホテル ブルーシャトー この先5K左
ホテル ブルーシャトー この先2K左
ドライブインなかや この先2K左
ホテル ブルーシャトー この先1・5K左
「吐きそう」
誰に言うでもなく呟いて、わたしは重い胃を擦った。
こんな日が来る事を全く予想していなかった訳じゃない。人は誰だっていつかは死ぬし、当然自分の親だって例外じゃない。そんなことは原始時代から分かりきった事なのに、わたしは今まで何もしてこなかった。それどころか、取り返しのつかないほどの、とんでもない不義理を重ねてきた。訃報を聞いたとき、気が狂いそうなくらい悲しかったのに、涙はほとんど流れなかった。わたしの心を覆ったのは、悲しみを超えた、罪悪感のどす黒い雲だった。
「大丈夫ですか?」
運転席の平松が、ルームミラーの中のわたしに言った。
「大丈夫」
平松は心配そうに頷いて視線を戻し、真っ暗な国道を進んで行く。普段から無口で真面目な平松だけど、今日は特に口が重い。わたしを気遣いながらも、何を言って元気付けていいのか分からない彼の気持ちが、車の振動を通して伝わってくる。
平松はわたしの出自をどこまで知っているのだろうか。彼に不安な気持ちをぶちまけたい衝動に何度も駆られたけれど、それが出来ないまま、もうこんなに近くまで来てしまった。
暑い訳でもないのに、手のひらに汗をかいている。カラカラに喉が渇いているのに、何も飲みたくない。気が付くと鼓動は速く、息がしづらい。ウィンドウを少し開けると、本当に吐き気が襲ってきた。
「大丈夫ですか? クーラー点けますか?」
「大丈夫」
田舎の臭い。
刈り取られた稲の臭いが入り込んできて、一気に車内を占領した。開けたばかりの窓を閉め始めたわたしを、平松が左目で窺っている。わたしは平松の死角に入って、酸っぱい唾を飲み込んだ。
ホテル ブルーシャトー この先500M左
いよいよだ。
覚悟した瞬間、心臓がせり上がってきて、喉に詰まった。無意識に歯を食いしばっている。荒くなった呼吸を、もうどうすることもできない。
気が付くと車は路側帯に停まっていて、平松がわたしを覗き込んでいた。
「ごめん、ほんと、大丈夫だから」
「でも……」
「ありがと、でも、早くいかなきゃ」
「そうですね。すいません」
本当は十分でもいいから、車を停めて休みたかった。おかあさんに会うのも親戚や近所の人に会うのも、おとうさんの遺体を見るのも、恐くて不安で壊れそうだ。でも行かなきゃ。もう逃げる訳にはいかないし、平松にも心配をかけられない。
「ひらまっちゃんがいてくれてほんと良かったよ。ありがとね」
車がまた加速するのと同時に、わたしは全くわたしらしくないことを言ってしまった。こんな弱気な自分を、人にさらけ出すのは初めてかも知れない。
「いや、僕なんか……。気遣って貰って逆にすいません。泳美さんの方が大変なのに」
「気にしないで」
平松はわたしを泳美さんと呼ぶ。それは平松がわたしより三つ年下の二十五歳だから、とも言えるし、平松がわたしの現場マネージャーだからだ、と言うことも出来る。自分のスタッフの中に、自分より年下の人間が増え始めた頃から、わたしの人気は一気に落ち始めた。
「この辺ですよね」
ホテル ブルーシャトー この先200M左
煤けた看板が通り過ぎるのとシンクロして、平松が振り返った。
「もうちょっと。この先のラブホのすぐ隣の家」
そう言ってしまって少しだけ落ち着いた。別の場所で、例えばコンビニかファミレスの駐車場みたいな所で車を停めて気を落ち着かせ、後は徒歩で向かいたいけれど、わたしの実家の周りには、コンビニもファミレスもない。あるのは田圃と畑とこの国道とあのラブホテルと、今日は多分営業していない寂れたドライブインだけだ。
見えた。
ホテル ブルーシャトー この先すぐ左
ラブホテルが近付いてくる。
ホテル ブルーシャトー
斜体のかかった特太ゴシックの文字。
闇の中で間抜けに輝く、青い城。
四階建てのビルが、田圃だらけのこの町では高層ビルに見える。
入口←
フラッシュする電飾看板。ヨーロッパの古城をイメージしたアーチ型の窓枠。と言ってもその形にペンキが塗ってあるだけで、枠の中のガラスはありきたりな長方形のアルミサッシだ。壁面にはその名が示す通りブルーのライトが当てられ、天井の中央に、何の役にも立っていない円錐形の塔が建っている。円錐の先端には、はためかない旗。と言うか最高にはためいた形のまま静止している旗。フランス貴族が見たら頭を抱えそうな、最低の城。しかも、今日は日曜で満室。下品なセックスと裏日本の田舎の象徴みたいな城を通り過ぎた直後、カーナビから売れない声優が言った。
「目的地周辺です。案内を終了します」
黒い画面に青い一本道が表示されているだけの寂しいカーナビ。旗のマークのついたそこが、わたしが二十八年前に生まれ、十年前に逃げ出した家だ。
※
砂利の敷かれた駐車スペースに車を突っ込むと、ヘッドライトが喪服のおばさんを照らした。彼女の顔に見覚えがある。三軒隣りのおばさんで、秋になったら柿を持って来る人だ。十年分老け込んだ柿おばさんが、猜疑心たっぷりの顔で、ライトに目を細めている。
「ドア開けなくていいから」
運転席を出ようとする平松を制止して、わたしは呼吸を整えた。携帯電話の電波状況を確認しながら、柿おばさんがいなくなるのを待つ。十年前は全く繋がらなかった携帯が今は何とか使えそうだ。
「じゃあ、ひらまっちゃん、わたし一人で行くから今日はどっか泊まってくんない?」
「え、でも、焼香ぐらいは」
「ありがと。でもごめん、一人で行きたいから」
平松は俯いて一息吐いた後、顔を上げて言った。
「そうですか。わかりました」
「ごめんね。あ、このまま真っ直ぐ行くと左にしょぼいドライブインがあるから。今日はたぶんやってないけど。それを超えて一つ目って言いってもだいぶあるけどとにかく一つ目のちゃんと信号のある交差点を左に曲がってそのまま真っ直ぐ行けば駅があってそこにたぶん何かあるから」
話しながら窓の外を見た。柿おばさんはほとんど位置を変えず、まだそこにじっとしている。仕方ない。もう行くしかない。
荷物を運ぼうとする平松をもう一度制止して、わたしはドアを開けた。
「じゃあ、明日電話するから。ほんとありがと」
「あ、会社から香典預かって」
「いい。とりあえずそこから今日の宿代遣って。残りは島田さんに言って実家に振り込んでもらって。ひらまっちゃんにどう説明したらいいか分かんないけど今それ貰ってもどうやって渡したらいいか分かんないから。ほんとごめん」
考え込む平松との会話を断ち切るように、わたしは車を降りた。懐かしい砂利の感触が胸に痛い。一泊分の荷物を入れたキャリーバッグを引きずり下ろして振り返る。もう、逃げられない。わたしは少し焦点を外した目で、柿おばさんを見て、挨拶をした。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
ホテル ブルーシャトー この先20K左
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「吐きそう」
誰に言うでもなく呟いて、わたしは重い胃を擦った。
こんな日が来る事を全く予想していなかった訳じゃない。人は誰だっていつかは死ぬし、当然自分の親だって例外じゃない。そんなことは原始時代から分かりきった事なのに、わたしは今まで何もしてこなかった。それどころか、取り返しのつかないほどの、とんでもない不義理を重ねてきた。訃報を聞いたとき、気が狂いそうなくらい悲しかったのに、涙はほとんど流れなかった。わたしの心を覆ったのは、悲しみを超えた、罪悪感のどす黒い雲だった。
「大丈夫ですか?」
運転席の平松が、ルームミラーの中のわたしに言った。
「大丈夫」
平松は心配そうに頷いて視線を戻し、真っ暗な国道を進んで行く。普段から無口で真面目な平松だけど、今日は特に口が重い。わたしを気遣いながらも、何を言って元気付けていいのか分からない彼の気持ちが、車の振動を通して伝わってくる。
平松はわたしの出自をどこまで知っているのだろうか。彼に不安な気持ちをぶちまけたい衝動に何度も駆られたけれど、それが出来ないまま、もうこんなに近くまで来てしまった。
暑い訳でもないのに、手のひらに汗をかいている。カラカラに喉が渇いているのに、何も飲みたくない。気が付くと鼓動は速く、息がしづらい。ウィンドウを少し開けると、本当に吐き気が襲ってきた。
「大丈夫ですか? クーラー点けますか?」
「大丈夫」
田舎の臭い。
刈り取られた稲の臭いが入り込んできて、一気に車内を占領した。開けたばかりの窓を閉め始めたわたしを、平松が左目で窺っている。わたしは平松の死角に入って、酸っぱい唾を飲み込んだ。
ホテル ブルーシャトー この先500M左
いよいよだ。
覚悟した瞬間、心臓がせり上がってきて、喉に詰まった。無意識に歯を食いしばっている。荒くなった呼吸を、もうどうすることもできない。
気が付くと車は路側帯に停まっていて、平松がわたしを覗き込んでいた。
「ごめん、ほんと、大丈夫だから」
「でも……」
「ありがと、でも、早くいかなきゃ」
「そうですね。すいません」
本当は十分でもいいから、車を停めて休みたかった。おかあさんに会うのも親戚や近所の人に会うのも、おとうさんの遺体を見るのも、恐くて不安で壊れそうだ。でも行かなきゃ。もう逃げる訳にはいかないし、平松にも心配をかけられない。
「ひらまっちゃんがいてくれてほんと良かったよ。ありがとね」
車がまた加速するのと同時に、わたしは全くわたしらしくないことを言ってしまった。こんな弱気な自分を、人にさらけ出すのは初めてかも知れない。
「いや、僕なんか……。気遣って貰って逆にすいません。泳美さんの方が大変なのに」
「気にしないで」
平松はわたしを泳美さんと呼ぶ。それは平松がわたしより三つ年下の二十五歳だから、とも言えるし、平松がわたしの現場マネージャーだからだ、と言うことも出来る。自分のスタッフの中に、自分より年下の人間が増え始めた頃から、わたしの人気は一気に落ち始めた。
「この辺ですよね」
ホテル ブルーシャトー この先200M左
煤けた看板が通り過ぎるのとシンクロして、平松が振り返った。
「もうちょっと。この先のラブホのすぐ隣の家」
そう言ってしまって少しだけ落ち着いた。別の場所で、例えばコンビニかファミレスの駐車場みたいな所で車を停めて気を落ち着かせ、後は徒歩で向かいたいけれど、わたしの実家の周りには、コンビニもファミレスもない。あるのは田圃と畑とこの国道とあのラブホテルと、今日は多分営業していない寂れたドライブインだけだ。
見えた。
ホテル ブルーシャトー この先すぐ左
ラブホテルが近付いてくる。
ホテル ブルーシャトー
斜体のかかった特太ゴシックの文字。
闇の中で間抜けに輝く、青い城。
四階建てのビルが、田圃だらけのこの町では高層ビルに見える。
入口←
フラッシュする電飾看板。ヨーロッパの古城をイメージしたアーチ型の窓枠。と言ってもその形にペンキが塗ってあるだけで、枠の中のガラスはありきたりな長方形のアルミサッシだ。壁面にはその名が示す通りブルーのライトが当てられ、天井の中央に、何の役にも立っていない円錐形の塔が建っている。円錐の先端には、はためかない旗。と言うか最高にはためいた形のまま静止している旗。フランス貴族が見たら頭を抱えそうな、最低の城。しかも、今日は日曜で満室。下品なセックスと裏日本の田舎の象徴みたいな城を通り過ぎた直後、カーナビから売れない声優が言った。
「目的地周辺です。案内を終了します」
黒い画面に青い一本道が表示されているだけの寂しいカーナビ。旗のマークのついたそこが、わたしが二十八年前に生まれ、十年前に逃げ出した家だ。
※
砂利の敷かれた駐車スペースに車を突っ込むと、ヘッドライトが喪服のおばさんを照らした。彼女の顔に見覚えがある。三軒隣りのおばさんで、秋になったら柿を持って来る人だ。十年分老け込んだ柿おばさんが、猜疑心たっぷりの顔で、ライトに目を細めている。
「ドア開けなくていいから」
運転席を出ようとする平松を制止して、わたしは呼吸を整えた。携帯電話の電波状況を確認しながら、柿おばさんがいなくなるのを待つ。十年前は全く繋がらなかった携帯が今は何とか使えそうだ。
「じゃあ、ひらまっちゃん、わたし一人で行くから今日はどっか泊まってくんない?」
「え、でも、焼香ぐらいは」
「ありがと。でもごめん、一人で行きたいから」
平松は俯いて一息吐いた後、顔を上げて言った。
「そうですか。わかりました」
「ごめんね。あ、このまま真っ直ぐ行くと左にしょぼいドライブインがあるから。今日はたぶんやってないけど。それを超えて一つ目って言いってもだいぶあるけどとにかく一つ目のちゃんと信号のある交差点を左に曲がってそのまま真っ直ぐ行けば駅があってそこにたぶん何かあるから」
話しながら窓の外を見た。柿おばさんはほとんど位置を変えず、まだそこにじっとしている。仕方ない。もう行くしかない。
荷物を運ぼうとする平松をもう一度制止して、わたしはドアを開けた。
「じゃあ、明日電話するから。ほんとありがと」
「あ、会社から香典預かって」
「いい。とりあえずそこから今日の宿代遣って。残りは島田さんに言って実家に振り込んでもらって。ひらまっちゃんにどう説明したらいいか分かんないけど今それ貰ってもどうやって渡したらいいか分かんないから。ほんとごめん」
考え込む平松との会話を断ち切るように、わたしは車を降りた。懐かしい砂利の感触が胸に痛い。一泊分の荷物を入れたキャリーバッグを引きずり下ろして振り返る。もう、逃げられない。わたしは少し焦点を外した目で、柿おばさんを見て、挨拶をした。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
作品名:LOVE HOTEL 作家名:新宿鮭