欲龍と籠手 中
部屋のドアがバタンと閉まったとたん、アンジーは体の緊張が解けて、ふーっと大きなため息をついた。
第8章 クオレ
「あれ、アンジーさんは?」
階段をおりて、食事の席についたエルコットにクオレは尋ねた。
「よく寝てたから、起こしちゃ悪いと思ってそのままにして来た。」
エルコットは左手にはめた小手を外すと机の上に置いていた。
「そうなの。じゃあ、彼の分だけ取っておくわ。」
そう言うとクオレはエプロンを取ってエルコットの向かいに座った。
そして、手を組んで瞼を閉じ祈りを捧げる。「我、幸いにして、清き食を受く、我らの神と命に感謝します。」
エルコットはふとクオレに会った時のことを思い出した。
自分も今二階のベットで眠っている男のように、彼女に助けられたのだ。
たしかあれは2年前だった。
俺は毒ガス弾を食らって、夜の街をボロボロの体で逃げていた。
こんな無様な失敗は初めてだった。体が痺れて、思うように動かない。
必死に翼に力を込めるが、ふらふらとぎこちない飛び方になる。
「早く撃ち落とせ!こうもり野郎を息の根を止めろ」
「あいつ、毒ガスでふらふら飛んでやがる。ざまぁみろ」
男たちから浴びせられる暴言や自分を攻撃して嘲り笑う顔が頭の中に蘇る。
もしも捕まれば、ひどい仕打ちをうけるのは目に見えていた。だから、歯を食いしばって、死に物狂いで飛び続けた。
あの日、なんとか男たちは振り切ったが、俺は途中で力尽き、教会のステンドグラスに突っ込んだ。
そこで俺の意識が真っ白になった。
どこだろう、ここは。
気がついた時にはなぜかベットの上にいた。
自分は教会に突っ込んだのではなかったのか。
なんだか、頭がズキズキと痛む。
エルコットは首だけを動かして、辺りを見回す。
ベットの向かいには本棚や机が置いてある。
それ以外には対した家具もない簡素な部屋だ。
部屋にはカーテンがしてあって、薄暗かった。
エルコットは体を起こそうとするが、腕に力が入らなかった。どうやら、敵に吸わされた毒ガス弾のせいだ。なんだか、まだ体が痺れている。
自力で上体を起こすのは無理そうだ。
そう判断して、エルコットは力んで少し持ち上げた頭を枕の上にどかりと下ろした。
そんな時に、部屋の扉が突然開いた。部屋に女が入ってくる。
女はなぜか手に花を持っていた。
薄いピンクの花びらの小さな花だ。
エルコットにはなんという名前の花なのか、わからない。
なぜその女が花なんか持っているのかエルコットには意味がわからなかった。
女は机の上においてある花瓶に花を生けていた。
エルコットは女に声をかける。
「おまえ、誰だ?ここはどこなんだ?」
声をかけられたことに気がついて女は振り返った。
「あ、よかった。気がついたんだ。君。まる1日眠ってたんだよ。カーテン開けるね。」
女はカーテンを開けた。
薄暗い部屋に光が差し込む。
エルコットは急に差し込んだ日光がまぶしくて、目を細める。
「私の名前はクオレ。それでここは私の家だよ。」
そういって女は笑っていた。
差し込んできた日の光で、薄暗くてわからなかった女の表情がはっきりと見えてくる。
歳はエルコットと同じで10代の後半くらいのように思える。
クオレは黒髪をボブカットにしている。
「ちょっと、待ってね。お腹空いてるでしょ。今からパン持ってくるから。」
クオレは部屋から出ていこうとする。
「おい、お前!」
「はい?」
クオレはドアを開けたところで立ち止り、エルコットの方をむいた。
「その机の上の花はなんのつもりだ?」
「花?ああ、この部屋、1人だと寂しいかなと思って。」
そういってクオレはさっさと部屋から出て行った。
クオレが部屋にもどってきた。盆にいくつかのパンを乗せている。
部屋にいい香りがたちこめた。
「おい。お前、何を企んでやがる。」
唐突にエルコットはそう言って、クオレを睨みつける。
それを聞いて、クオレはきょとんとした顔をする。
「企む?私が?」
「妙に親切で胡散臭いんだよ。一体何を企んでやがる?」
エルコットは眉間にしわをよせると憎しみをこめてクオレをにらんだ。
その様子を見てクオレはぷっと吹き出すと口を押さえてクスクス笑いだした。
「おい!お前!何がおかしい!?」
笑われて、エルコットは語気を強める。
クオレはまだ笑っている。
「ごめん。ごめん。だって、君。寝たきりの状態で怖い顔して“一体、何を企んでやがる”だもん。おかしくって。」
クオレは“何を企んでやがる”の部分だけエルコットの真似をして眉間にしわを寄せて言った。そして、また、笑いだした。
「くそ。バカにしやがって。お前だって、俺が誰だか、わからないわけないないだろ?俺はファーブニエル・エルコットだぞ!」
そう怒鳴った時にエルコットの腹の虫がぐぅぐぅなった。
それを聞いて、クオレは爆笑しだした。
エルコットは腹立たしいやら、恥ずかしいやらで、黙ってしまった。
エルコットはクオレの手を借りて、上半身を置きあがらせた。
その時に、エルコットはクオレの手のひらがガサガサとひび割れていることに気がついた。
エルコットは差し出されたバゲットをクオレの手からひったくるように取ると頬張った。
バゲットの硬い表面を歯でかみちぎった。
口のなかにバゲットの香ばしい風味が広がる。
空腹だったエルコットはパンの味をよくかみしめて、飲みこむ。
「どう?パン?おいしい?私が作ったんだよ?」
クオレが頬杖をつきながら聞いた。
「お前が?」
「うん。あたし、パン屋だったから。」
エルコットはのこりのバゲットを口に放り込むとパンくずをベットにこぼしながら、むしゃむしゃと口を動かした。
「だった?」
「パン屋。クビになっちゃった。不景気だもんね。だから、今私暇なんだ。」
「ふーん。」
エルコットはそういうと二つ目のパンに手を伸ばした。
「わたしあんまり学がないし。パンを焼くことしか能がないから就職厳しいよ。」
クオレは小さなため息をはいた。
数日後。
エルコットは傷もふさがり、体力がだいぶ戻ってきていた。
エルコットは自分で立ち上がって、歩けるようになったので、部屋を掃除したり、クオレに料理の作り方を教わったりした。
「ところで、おまえは親とかいないのか?」
ジャガイモの皮をむきながらエルコットがクオレに聞いた。
「父さんと母さんは私の小さい時に離婚したの。私は父さんに育てられたんだけど、父さんちょっと前に酔っ払って道路で寝むっちゃってそのまま、天国にいっちゃった。」
「寂しいとか思わないのか?」
うーんとクオレは腕組みした。
「あんまり寂しくはないかな~。もうあたし大きいし。父さんは休みの日お酒飲んでるか、ギャンブルばかりしてて、かまってもらった記憶あんまりないし…あ、でも母さんにはもう一度会いたいな。エルコットのお父さんやおかさんはどんな人?おとうさんも泥棒さん?」
エルコットは皮をむいたジャガイモをまな板に放り投げながら言った。