惜別
「あ、ごめん。……大丈夫よ。ジーナみたいな美人ならすぐいい人が現れるはずよ」
そうだといいけど、と曖昧に頷くわたしに、オリガは、じゃあまたね、と言って去って行きました。
一人になったわたしは、占い師さんの黒い天幕の前に並んでいる人々の列の最後尾を目指します。その列は思ったよりも短かったので、少し安心しました。待っているのは十人くらいでしょうか。皆、興奮と期待の入り混じった顔をしています。ふと見ると、天幕から一人の女性が出てきました。晴れやかな表情を浮かべています。それを見てようやく、列に並ぶ決心がつきました。
「ああ、あんたも占ってもらうのかい?」
最後尾につくと、わたしの前に並んでいる中年の女の人が、話しかけてきました。
「ええ。ちょっと興味があって……」
「今を逃したらいつ見てもらえるかわからないからね。よく当たるって噂だよ。で、あんたは何を占ってもらうんだい? 恋愛運? それとも家庭運?」
にやにや笑いながら女の人は、そう聞いてきます。この図々しさは好きになれそうもありません。
「いえ……。まだ考えていなくて」
「そうかいそうかい。じっくり考えるといいよ。ちなみにあたしは金運さね。うちの亭主が博打で湯水のように金を使っちまうもんだから、家計が火の車になっちまって。ここらで一山当てたいと思ってるのさ。どうだい、占ってもらえると思うかね」
「さあ……、どうなのでしょう」
わたしには、この女の人がなぜそんなことを言うのかわかりませんでした。家計が火の車、などというのは初対面の人間に言うべきことではないはずです。お金がない、というのはこの女の人にとって恥ずかしいことではないのでしょうか。そう考えてしまうのは、わたしが比較的恵まれている、世間知らずの小娘だからなのでしょうか。
「あんたみたいな身なりのいい別嬪さんにはわからないかもしれないけどね、世の中ってのは厳しいんだよ。てっぺんにいる奴だってちょっとでも気を抜けば、すぐ追い落とされちまう。出し抜くか出し抜かれるかだよ。ある意味博打とおんなじさ」
「そう、なのですか」
わたしがそう言うと女の人は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまいました。それ以上話しかけてくることもないだろうと思い、わたしは少しほっとしました。
それにしてもいったい、占い師さんには何を聞いたら良いのでしょう。わたしが結婚するべきかしないべきかについて、でしょうか。それとも、リーアンの体を少しでも治すためにするべきことについて、でしょうか。両方とも知りたいことには違いありませんが、もっと大切なことがあるような気がするのです。なのに、それが何なのかがわからないのです。
考えているうちに列はどんどん進み、わたしの前に並んだ女の人が天幕に入る番になりました。彼女は、よし、と気合を入れて、黒い天幕の向こうに消えました。わたしが何を聞くべきなのかは、まだわかりません。もっとよく考えようとしたその時、天幕から、早くも彼女が出てきてしまいました。
「なんだいあのいんちき占い師! あーあ、時間の無駄だった。まったく腹立たしいったらありゃしない!」
聞いているだけで胸の悪くなるような悪態をつきながら、彼女は大股に歩き去って行きました。
次はわたしの番です。もう迷っている暇はありません。とりあえず中に入って、話を聞いてもらうだけでも何かが変わるかもしれません。わたしはそう思って、巨大な影のような天幕の入り口に手を掛けました。
天幕の内側も、外側と同じく真っ黒でした。それほど暗く感じないのは、上の方に大きな明り取りの窓のようなものがあるからでしょう。中はかなり広いのに、小さな机が一つと、それを挟んで向かい合わせになるように椅子が二つ置いてあるだけです。そしてもちろん、机の向こう側の椅子には、占い師さんと思しき人が座っていました。
「いらっしゃい。よく来たね。さあ、その椅子に腰掛けておくれ」
しわがれた声でした。わたしは恐る恐る近付きます。粗末な木の椅子に掛けて、初めて占い師さんの顔を見ることができました。もう何歳かもわからないようなしわしわのお婆さんです。天幕と同じ真っ黒でゆったりとした、変わった形の服を着ています。灰色の髪の毛は奇妙な形に結い上げてあります。
何を言われるのかと、どぎまぎしながら待っていたのですが、老婆はわたしの顔をじっと見つめているばかりです。
「あの」
沈黙に耐えかねてわたしが口を開くと占い師さんは、静かに、と低く言いました。なおもわたしの顔を見続けるので、少し居心地が悪くなってきた頃、ようやく、もういいよ、と言われました。
「これであんたがどんな人間かは大体わかった。それで、何を占ってほしいのかね?」
ああ、ついに言われてしまいました。仕方ありません。正直に言うしかないでしょう。
「それが……、自分でもよくわからなくて」
「そうかい。それじゃあ、ちょっと見てみようかねえ」
占い師さんは、そんなことは大して珍しいことでもないというように、頷きました。
「すまないね。ちょっとだけ触らせておくれ」
そう言って占い師さんは、ちょうど熱がないか確かめる時のように、わたしの額にその皺深い手を当てました。
占い師さんの手は冷たく、まるで氷のようでした。その冷たさが頭の隅々までに染み渡るような感覚です。彼女は目を瞑り、しばらく微動だにしませんでした。
「なるほど、そうか……。それは難しい問題だねえ」
わたしの額から手を離すと、占い師さんはそう言いました。
「体の弱い妹さんを放って嫁になんて行けない。それに、あんたは妹さんほど自分の将来について考えていない。そうなんだろ?」
「ええ……」
「でもよく考えてごらん。今、あんたは幸せかい?」
占い師さんの質問の意味が、よくわかりませんでした。幸せも何も、わたしはこの生活しか知らないのです。比較する対象がないので、何とも答えようがないように思えました。
「リーアンの世話をすることを苦だと思ったことは一度もありません。だから、今の生活は幸せなのだと思います」
しばらく考えてわたしは、やっとこんな答えを捻り出しました。
「そうかい。あんたがそう思っているならそれでいいさ。でもね、一つ言っておくよ。満ち足りた生活と幸せな生活は少し違うのさ。あんたは確かに今、満ち足りた生活を送っている。食べるのに困らない、安定した生活だ。けれど、その一方でこの上なく単調でもある。逆にあたしみたいに、あちこち移動して変化に満ちた暮らしを送るのも悪くないもんだよ。あんたはもう少し外の世界に目を向けてもいいと思うけどねえ。妹さんも、あんたにそうあってほしいと考えてるはずだよ」
「外の世界に、目を向ける?」
「そう。何も見合いだの結婚だのに限ったことじゃない。どこか遠くに旅行するとか、絵でも音楽でも芝居でもいい、そういうものを観たり聴いたりしに行くとか、そんなことでいいんだ。これまでそういうことはしてこなかったんだろう?」
確かに、そうでした。わたしの趣味と言えば本を読むことぐらいのものです。
「あんたには、もっと多くの人と出会うことが必要だ」
多くの人と、出会う。
「あんたは自分で自分を妹さんに縛り付けているんだ」