幽霊
「見たのか?」
と、いそいそと傍らにおいてある眼鏡を取り上げる。
急に立ち上がったせいか目の前がくらりとした。
「見た。おまけに聞いた」
どさりとベッドに腰をおろしてそう答えると、カッと目を見開いた五十川が膝を詰めるようににじり寄ってきた。
「なにを?」
「のれん、だ」
「のれん?」
「のれん」
もう一度繰り返した。のれん。確かにあれはそう言った。ぽっかりとあいた丸い穴から、そう言った。男の声だった。
「……さっぱりわからねぇ」
凶悪なまでに眉をしかめて五十川が言った。
「俺にもさっぱりわからん」
なにせ、のれんだ。
「あ」
「なんだ」
「そういえば足があった」
眼鏡の奥で五十川の目が再び輝いた。
夕方、五十川は、スーパーの袋とともにじゃらじゃらしたものを携えてやってきた。
上がり込むなり、画鋲出せ画鋲、と言いながらスーパーの袋を床に置きそのじゃらじゃらしたものを広げて見せた。色とりどりのプラスチック片が連なった、玉のれんだった。実にファンシーな、アレだ。
「なんだそれ」
「のれん」
見ればわかる。
「どうする気だ」
改めて聞き直しながら金色の画鋲のつまったケースを手渡すと
「出るのはここだろ。で、のれんっつったんだろ」
と、五十川は台所と寝間を区切る鴨居にそののれんを吊り下げ始めた。
「つまり幽霊はここにのれんをかけて欲しいんだよ」
青やら白やらのプラスチックがぴらぴらと揺れている。
「五十川……」
五十川は大真面目だった。大真面目に、几帳面に、腕を伸ばして画鋲を押し込んでいる。玉のれんが揺れ、チャラチャラと軽い音をたてた。
なにが悲しくて幽霊がこの部屋のインテリアの心配をしなくてはならないのか。百歩譲って本当に幽霊がのれんを欲しているのだとしても、だったらその目的が果たされた今、幽霊はもう現れなくなるではないか。よぅし、今日は寝ずの番だ、とつぶやきながらのれんを吊り下げているかしこい五十川のうしろ姿に、自分は少し悲しくなった。
それに、
「五十川」
それに、こののれんを選んでくるこいつのセンスときたら。
「なんだ?」
「……今日の夕飯はなんだ」
五十川は振り向いて露骨に嫌な顔をした。
夕飯は鮭のバター焼きとエビのすり身が浮いたトマト味のスープだった。
おーい、と間延びした声に振り向くと、白衣をひらひらとなびかせた五十川が実験台の間を縫って近付いてきた。
ちょっと待て、と目で制して、持っていた試験管を恒温槽に立てた。
「なにやってるとこ?」
恒温槽を覗き込む五十川の左腕をつかんで、腕時計で時間を確認する。
「……最後のインキュベーション」
30分恒温槽に放置、と頭の中で手順を再確認する。さっきはこの放置時間にうっかり眠ってしまい、せっかくPCRした精製DNAを試験管の中ですっかり溶かしてしまった。
うわ、失敗したのか、とおもしろがる五十川が恨めしい。
きれいに洗濯された白衣をだらしなく着込んだ五十川は、やたらと機嫌良く、まぁ次失敗したら俺の精製DNAやるから、などとうそぶいている。お前のをもらってもどうにもならんと言い返そうと息を吸い込んだ途端、肩のあたりにどっと疲れを感じ、吸い込んだ息は盛大なため息となって出た。
「しかしまぁ、何につけお前は鈍感なやつだと思ってたけど、たまには目敏く見ちゃうんだな」
ちらりと俺を哀れむような目で見る。
「鈍感かぁ?」
「お前は鈍い」
五十川は40度の恒温槽に片手を突っ込んで、いい湯加減だねぇとはしゃぎながら言いきった。捲り上げた袖のところに薄青い染みがあった。電気泳動用の発光試薬だ。実験の方も調子良く進んでいるらしい。一晩徹夜しただけの五十川は顔に疲れも見えないし自分のようにぼんやりもしていない。対して、自分の安眠はかれこれ一週間近く妨害されている。
案の定だ。
あのぴらぴらしたプラスチック片を思い出し、腹立たしいを通り越して暗澹たる思いに駆られる。
案の定、あの忌々しい玉のれんは幽霊に対してなんの抗力も発揮しなかった。もっともなことと言えばそうだ。ご利益のあるお札ではあるまいし、あんなものであれが出なくなるわけがない。ましてやあの趣味の悪さだ。たとえ幽霊がのれんを欲していたのだとしても、あんなものでは納得しはしないだろう。
昨晩のことが思い出された。昨晩、と言っても今日の午前3時のことだ。連日の例にもれず、ふと目が覚めた。時間を確かめようと枕元に手を伸ばしたところで、おい、と下の方から殺した声がかかった。見ると五十川が布団の上で枕を抱いてあぐらをかいていた。本当に寝ずの番をしていたらしい。むっつりと五十川が顎をしゃくったその先に、白い影があった。
ベッドの上でそっと身を起こした。五十川は身じろぎもせずに白い影を凝視している。
白い影は昨日よりいよいよ白くはっきりしていた。もう影といった頼りない風情ではない。胴体に当たる部分が随分厚みを帯びてきて、あちら側はもう透けていない。ゆらゆら揺れてもいなかった。白いものがぼんやりと佇んでいるその様は、随分と、幽霊らしくなっていた。
嫌だな、と思った。
幽霊など信じていないのに、嫌だな。
こうはっきりされていては、見て見ぬふりも出来ない。
おまけに五十川にもちゃんと見えているらしい。
ああ、嫌だな。
そう思いながらぼんやり、それを眺めていた。
その時それが顔、をこちら側に向けた。
わかってはいたが、心臓が跳ね上がった。
下の方から五十川の緊張した空気が伝わってきた。
くるぞくるぞ。
そしてそれは
「のれん」
と言った。
そして消えた。一瞬のうちに。白さのかけらも残さず。
五十川が振り返った。こわばった顔をして振り返った。
自分はそんな五十川に、うんうん、と曖昧に二三度頷いて見せた。
そして寝た。
寝入る瞬間に無意識のうちに携帯電話で確かめた時刻は、午前三時二十九分。だった。
中途半端な……と何か釈然としない気で寝たのだった。
やっぱりあののれんじゃな、と納得しながら寝たのだった。
「おい」
声をかけられて我に帰った。
「なんだ」
立ち上がると、なんだじゃねぇよ、と妙に神妙な顔つきで五十川が言った。
「次、制限酵素だろ」
左腕の時計を示しながら、プラスチックチップを投げて寄越す。
あわてて恒温槽から試験管を取り出した。
「重症だな」
五十川が呟いた。
「今日はお前、あれが出ても起きなくていいぞ」
背を向けたままで五十川が言うのをテーブルに突っ伏したまま聞いていた。聞いていたが答えるのもおっくうで目を閉じたまま黙っていると
「俺がなんとか説得するし」
と、続いたので驚いた。
「お前……説得するのか幽霊を」
目一杯呆れた声で言ったつもりだったが、突っ伏したままでは力無い呟きにしかならない。口を大きく動かすと頬骨がテーブルの上板にあたって痛いのだ。
台所にはラードの香ばしい匂いが漂っている。睡眠さえ邪魔されなければ、毎日、夕食が用意されるこの状況は悪くない。