幽霊
夜中にふと目が覚めると台所と部屋の境目あたりに白い人影があった。
人影と言うと語弊がある。なんとなくもやもやとしたものがわだかまっているとしか見えなかったが、ふと頭の隅で、人影のようだ、と思ったのだ。それは半透明で、背後の暗がりに沈む台所をうすらぼんやりと透かしていた。透けているところが白くかすんでゆらめいていた。炎の上の空気が揺らぐのによく似ていた。しかし人影自体は揺らぎもうねりもせず落ち着いた様子でそこにあった。
声も出ないほどにひどく驚いたのだが、そのまままた眠ってしまった。それともあれが、気絶した、というヤツかもしれない。
ということが三晩続いた。駄目押しの四度目の朝には、いよいよ自分にも夢ではないらしいということが薄々わかってきた。わかってきたというより、認めたくなかったものを渋々認めることにしたのだ。では、夢ではないとすると、あれは一体何なのか。どこから入ってきたのかはたまたどこから湧いたのか。そもそも寝つきのいい自分が、なぜあれが湧いたときにふと目など覚ましてしまうのか。はたしてこれから
「幽霊だな」
すべてを言い終わらないうちに五十川が言った。
Tシャツの裾で、外した眼鏡を拭きながら実に気のない態度で言い放った。
人の話を無遠慮に遮った上に、俺がここまで話すあいだに注意深く遠ざけてきた単語を口にするこの無神経にはさすがにむっとして
「そんな言葉でなにもかも説明できたと思うなよ」
と、剣呑に言い返すと、五十川はにやりと笑って
「なんだかよくわからない奇怪な現象を説明するためにそういう言葉があるんだろう」
と、眼鏡をかけ直しながら言った。
「科学的じゃないなぁ」
「まぁなぁ」
「で」
「で?」
「で、どうしたらいいと思う」
「そんなこと」
知るか、と言いかけた五十川の言葉尻を遮って
「お前、自分で聞いておいてそれはないだろう。俺はお前の好奇心を満たすために愉快な隈(これは五十川の言葉だ)を目の下にぶら下げてるわけじゃないぞ」
と、俺は自分が一日八時間は眠らなくては使い物にならない人間であること、眠りが妨げられることは由々しき事態であること、真剣に困っていることを切々と訴えた。
五十川は少し驚いた顔をして
「8時間って、お前はお子サマか……」
と言った。
「ついでに言えば、幽霊とかオカルト系は一切信じてない」
そう付け足すと、驚いていた五十川の顔が少し歪んで狐の面のようになって、その顔で五十川は
「知ってる」
と言った。おもしろがっている、と知れた。
おもしろがったまま、五十川が泊まりにきた。自分もその「幽霊」を見るというのだ。
スーパーのビニール袋を片手にうきうきとした様子で上がり込んだ五十川が
「しかしこれで不当に安いこの部屋の家賃にも説明がつくな」
と呟いたので、
「あ、そうか」
俺は初めてその事実に思い至った。
男子学生には持て余し気味な程、妙に広いキッチンを備えた2LDK。駅からもそう遠くない。近くにコンビニもスーパーも酒屋もある。築年数は経っているものの、それが4万円代。
なるほど。
風呂付きトイレ付き幽霊付きだったってワケか。
「今頃気付くな。そういうことはそもそも部屋を借りる前に疑ってかかるべきなんだ」
ガサガサと袋に手を突っ込みながら五十川が言った。そんなことを言ってはいるがこの部屋の広い台所を一番活用しているのはこの男だ。今も、まずはお湯だお湯、と言いながら慣れた様子で鍋を出している。
「そういうものか。五十川、」
「なんだ」
大根。鶏肉。生姜。ほうれん草。黒胡麻。料理酒。今日は和食か。
「お前ってかしこいなぁ」
そう言うと、五十川は食材を並べていた手を止めギッとこちらをにらんだ。別に俺はからかったつもりで言ったのではない。心底この男はかしこいと思っている。なぜならそれはこの男の特技が料理だからだ。料理を作るだけなら誰にだってできる。しかし複数の料理を同時に、合間に後片付けまでこなしながら手際良く要領良く作り上げるのは難しい。長年の訓練によるか、またはよほど頭が良くなくてはできないと俺は思う。よって五十川はかしこい。ちなみに料理が趣味でなく特技なのは、五十川は料理をするのが好き、というわけではないからだ。五十川曰く、ただできるだけ。
「そうか。それじゃかしこい俺がついでに教えてやるけど、お前みたいな鈍感な男はそうそういないぞ」
言いながら流しの下からすり鉢とすりこぎを取り出す。いつそんなの持ち込んだ、と聞こうとしたが話の腰を折ると怒られそうだったので
「なんでだ」
と聞くと、すりこぎを手に振り返った五十川は優越感に満ち満ちた顔をして言った。
「いいか、家賃が安いっつーことはこの部屋にはずっと前から頻繁に幽霊が出るってことだろ」
ほれ。と差し出されたすりこぎをなんとなく受けとった。
「ああ、そうだろうな」
「お前、この部屋に住んで何年だ」
「……3年」
「バカ」
手鍋で黒胡麻を炒りながら、みなまで言わすな、バカ、と五十川は言った。
夕飯はふろふき大根と鳥わさ、それにほうれん草の胡麻和えだった。
ふと目が覚めた。またかと思いながら、枕元においてあった携帯電話で時間を確認した。午前3時ちょっと過ぎ。そっと首をひねる。台所と部屋の境目に白い影が見えた。
そらきた、と、傍らのベッドに手を伸ばし、壁に向かって背を丸めている五十川をそっと揺すった。
白い影は相変わらずその向こうに見える台所をゆらりゆらりとうねらせている。いつもより少し、人型がはっきりしているような気がする。
五十川は起きない。
「おい」
小さく声をかける。しかし起きない。そうこうしているうちに消えてしまったらどうするのだ。その肩を力を込めて揺さぶった。
目の端で白い影が少し傾いた。
その動きがまるでこちらを窺っているようで、どきりとして思わず手を引いた。
やはりいつもよりもはっきりしている。白も少し濃いような気がする。足らしき部分も見て取れる。そして顔も、わずかだが目鼻立ちが。
冷や水を浴びせられたようにゾッとした。
怖い。そう思った。初めて強い恐怖を感じた。
なんだかよくわからないものがヒトの形をとっている。
怖い。
ゆらりゆらり。人影の内部が白い炎のように揺れている。怖いと思いながらも目が離せない。傍らで起きる気配をまったく見せない五十川を心中激しく呪った。
ゆらり。
人影の頭の部分が少し歪んだ。
どんどん目鼻立ちがくっきりしてくる。目に当たる部分が白く抜けている。
そしてぽっかりと、白い影は口を開けた。
「のれん」
はっきりそう聞こえた。
男の声だった。
自分の思考はそこでブラックアウトした。
脇腹に鈍い痛みを感じて起き上がると、険しい顔をした五十川に見下ろされていた。こいつ蹴りやがったなと文句の一つでも言おうとしたら先を越された。
「何でお前は人の足の上で寝てんだ。おかげで俺は足に石枷で囚われの身になった夢を見た」
眼鏡がないせいでいつもよりあっさりとして見える五十川の仏頂面を見た途端、昨夜のことがにわかに蘇り、俺はがばりと立ち上がって怒鳴った。
「夢だと?お前は人んちになにしにきたんだ?飯食って寝て愉快な夢見るためか?!肝心な時に起きないで!」
五十川の目が輝いた。
人影と言うと語弊がある。なんとなくもやもやとしたものがわだかまっているとしか見えなかったが、ふと頭の隅で、人影のようだ、と思ったのだ。それは半透明で、背後の暗がりに沈む台所をうすらぼんやりと透かしていた。透けているところが白くかすんでゆらめいていた。炎の上の空気が揺らぐのによく似ていた。しかし人影自体は揺らぎもうねりもせず落ち着いた様子でそこにあった。
声も出ないほどにひどく驚いたのだが、そのまままた眠ってしまった。それともあれが、気絶した、というヤツかもしれない。
ということが三晩続いた。駄目押しの四度目の朝には、いよいよ自分にも夢ではないらしいということが薄々わかってきた。わかってきたというより、認めたくなかったものを渋々認めることにしたのだ。では、夢ではないとすると、あれは一体何なのか。どこから入ってきたのかはたまたどこから湧いたのか。そもそも寝つきのいい自分が、なぜあれが湧いたときにふと目など覚ましてしまうのか。はたしてこれから
「幽霊だな」
すべてを言い終わらないうちに五十川が言った。
Tシャツの裾で、外した眼鏡を拭きながら実に気のない態度で言い放った。
人の話を無遠慮に遮った上に、俺がここまで話すあいだに注意深く遠ざけてきた単語を口にするこの無神経にはさすがにむっとして
「そんな言葉でなにもかも説明できたと思うなよ」
と、剣呑に言い返すと、五十川はにやりと笑って
「なんだかよくわからない奇怪な現象を説明するためにそういう言葉があるんだろう」
と、眼鏡をかけ直しながら言った。
「科学的じゃないなぁ」
「まぁなぁ」
「で」
「で?」
「で、どうしたらいいと思う」
「そんなこと」
知るか、と言いかけた五十川の言葉尻を遮って
「お前、自分で聞いておいてそれはないだろう。俺はお前の好奇心を満たすために愉快な隈(これは五十川の言葉だ)を目の下にぶら下げてるわけじゃないぞ」
と、俺は自分が一日八時間は眠らなくては使い物にならない人間であること、眠りが妨げられることは由々しき事態であること、真剣に困っていることを切々と訴えた。
五十川は少し驚いた顔をして
「8時間って、お前はお子サマか……」
と言った。
「ついでに言えば、幽霊とかオカルト系は一切信じてない」
そう付け足すと、驚いていた五十川の顔が少し歪んで狐の面のようになって、その顔で五十川は
「知ってる」
と言った。おもしろがっている、と知れた。
おもしろがったまま、五十川が泊まりにきた。自分もその「幽霊」を見るというのだ。
スーパーのビニール袋を片手にうきうきとした様子で上がり込んだ五十川が
「しかしこれで不当に安いこの部屋の家賃にも説明がつくな」
と呟いたので、
「あ、そうか」
俺は初めてその事実に思い至った。
男子学生には持て余し気味な程、妙に広いキッチンを備えた2LDK。駅からもそう遠くない。近くにコンビニもスーパーも酒屋もある。築年数は経っているものの、それが4万円代。
なるほど。
風呂付きトイレ付き幽霊付きだったってワケか。
「今頃気付くな。そういうことはそもそも部屋を借りる前に疑ってかかるべきなんだ」
ガサガサと袋に手を突っ込みながら五十川が言った。そんなことを言ってはいるがこの部屋の広い台所を一番活用しているのはこの男だ。今も、まずはお湯だお湯、と言いながら慣れた様子で鍋を出している。
「そういうものか。五十川、」
「なんだ」
大根。鶏肉。生姜。ほうれん草。黒胡麻。料理酒。今日は和食か。
「お前ってかしこいなぁ」
そう言うと、五十川は食材を並べていた手を止めギッとこちらをにらんだ。別に俺はからかったつもりで言ったのではない。心底この男はかしこいと思っている。なぜならそれはこの男の特技が料理だからだ。料理を作るだけなら誰にだってできる。しかし複数の料理を同時に、合間に後片付けまでこなしながら手際良く要領良く作り上げるのは難しい。長年の訓練によるか、またはよほど頭が良くなくてはできないと俺は思う。よって五十川はかしこい。ちなみに料理が趣味でなく特技なのは、五十川は料理をするのが好き、というわけではないからだ。五十川曰く、ただできるだけ。
「そうか。それじゃかしこい俺がついでに教えてやるけど、お前みたいな鈍感な男はそうそういないぞ」
言いながら流しの下からすり鉢とすりこぎを取り出す。いつそんなの持ち込んだ、と聞こうとしたが話の腰を折ると怒られそうだったので
「なんでだ」
と聞くと、すりこぎを手に振り返った五十川は優越感に満ち満ちた顔をして言った。
「いいか、家賃が安いっつーことはこの部屋にはずっと前から頻繁に幽霊が出るってことだろ」
ほれ。と差し出されたすりこぎをなんとなく受けとった。
「ああ、そうだろうな」
「お前、この部屋に住んで何年だ」
「……3年」
「バカ」
手鍋で黒胡麻を炒りながら、みなまで言わすな、バカ、と五十川は言った。
夕飯はふろふき大根と鳥わさ、それにほうれん草の胡麻和えだった。
ふと目が覚めた。またかと思いながら、枕元においてあった携帯電話で時間を確認した。午前3時ちょっと過ぎ。そっと首をひねる。台所と部屋の境目に白い影が見えた。
そらきた、と、傍らのベッドに手を伸ばし、壁に向かって背を丸めている五十川をそっと揺すった。
白い影は相変わらずその向こうに見える台所をゆらりゆらりとうねらせている。いつもより少し、人型がはっきりしているような気がする。
五十川は起きない。
「おい」
小さく声をかける。しかし起きない。そうこうしているうちに消えてしまったらどうするのだ。その肩を力を込めて揺さぶった。
目の端で白い影が少し傾いた。
その動きがまるでこちらを窺っているようで、どきりとして思わず手を引いた。
やはりいつもよりもはっきりしている。白も少し濃いような気がする。足らしき部分も見て取れる。そして顔も、わずかだが目鼻立ちが。
冷や水を浴びせられたようにゾッとした。
怖い。そう思った。初めて強い恐怖を感じた。
なんだかよくわからないものがヒトの形をとっている。
怖い。
ゆらりゆらり。人影の内部が白い炎のように揺れている。怖いと思いながらも目が離せない。傍らで起きる気配をまったく見せない五十川を心中激しく呪った。
ゆらり。
人影の頭の部分が少し歪んだ。
どんどん目鼻立ちがくっきりしてくる。目に当たる部分が白く抜けている。
そしてぽっかりと、白い影は口を開けた。
「のれん」
はっきりそう聞こえた。
男の声だった。
自分の思考はそこでブラックアウトした。
脇腹に鈍い痛みを感じて起き上がると、険しい顔をした五十川に見下ろされていた。こいつ蹴りやがったなと文句の一つでも言おうとしたら先を越された。
「何でお前は人の足の上で寝てんだ。おかげで俺は足に石枷で囚われの身になった夢を見た」
眼鏡がないせいでいつもよりあっさりとして見える五十川の仏頂面を見た途端、昨夜のことがにわかに蘇り、俺はがばりと立ち上がって怒鳴った。
「夢だと?お前は人んちになにしにきたんだ?飯食って寝て愉快な夢見るためか?!肝心な時に起きないで!」
五十川の目が輝いた。