幽霊
そもそもこの男がこうやってちょくちょく俺の部屋で夕飯を作るようになったのはいつの頃からだったか。差し向いで飯を食う程仲が良くなったのはなんのきっかけだったか。判然としない。気付いたらいた。するりとこちらのテリトリーに入り込んで、いた。この男だって十分幽霊みたいなもんだ。
「口をきくんだから耳も聞こえるんだろう。話すことが可能なら説得だって可能なはずだ」
バックにリズミカルな包丁の音を響かせながら、自信たっぷりな口調で五十川は言った。
のれんでダメなら次が説得。我が軍の参謀は、実にシンプルでストレートな思考回路をしているらしい。しかし指揮官たる俺は、もう疲れ果てて参謀の単純な戦術に異を唱える元気もない。ああ、我が軍は壊滅だ……とぼんやり俺が意識を飛ばすその背中で
「さぁて、今日の夕飯はなんでしょうか〜」
この家で一番大きな鍋からわかりやすい匂いを漂わせながら、参謀は上機嫌で続ける。
黙っていると
「バカ、カレーだよ」
参謀は少し臍を曲げたようだった。
ふと目が覚めた。ああ、またか、と思ったところで、頭の後ろの方から低い声が聞こえているのに気付いた。誰かがなにかしゃべっている。そちらを向こうと寝返りをうとうとしたら、後ろからなにかに両の目を塞がれた。乾いた手のひらだと気付くのにすこし時間がかかった。いいから寝とけ、と低い声がした。五十川だった。手のひらのように、かわいて、かすれた低い声だった。
言われたままにまた目を閉じた。
五十川の腕の重みがかかった頭の後ろで密やかな声が続いている。
ゆっくりと、頭が枕に沈み、体がどこかへ落ちていく感覚が一瞬まとわりつく。
しばらく聞いているうちにその声は二人のものだということがわかった。片方は五十川の声。もう一方は聞き覚えのない低い声だった。どちらも何を言っているかは聞き取れない。
ああ、五十川は誰と話しているのだろう。何を話しているのだろう。
五十川の乾いた手のひらは、ひやりと、なにか無機質なもののように体温を感じさせず、自分の頭の上に乗っていた。冷たいそれにじわりと自分の体温がにじんでいく。五十川がひそめた声で何ごとか言うたびに、かすかな振動が腕からまぶたの薄い皮膚に伝わった。
抑揚のない話し方。切れ目のない会話。目のようには閉じられない耳が拾う音。平坦なノイズのようなそれを、なんとか聞き分けようとすると、耳のあたりからじわりと、なにかが滲み出していくようなかんじがした。
じわり。
まぶたの裏の暗闇で光がにじむ。
じわり。
耳の中から何かが滲み出し、夜の空気に広がっていく。
部屋の闇と目を閉じた闇。五十川の温度と自分の温度。抑えた話し声と静寂の中のノイズ。
じわり、といろんなものの境界が混じりあっていく。
五十川の手のひらに覆われたまぶたの裏で、水面に立つさざ波のようなかすかな光が明滅して、消えた。
昨日の残りのカレーにうどんの玉を投入しながら五十川の言うことには、
だから昨日俺が説得したんだけどな、あ、うまくいったからきっと、今日からもう出ないぜ。で、説得したんだけど、話が通じないわけよ、それが。何でだと思う?……少しは考えろよ。アイツ江戸時代の幽霊だったわ。……いや、本人は寛永何年だとか言ってたけどな、だって格好がもう着物だったし、そりゃ江戸時代だろ?で、くしゅどんとかいそぎとかどうのこうの言うから、わかんねぇよなんなんだって聞いたら、なんか店に強盗が入ってそれでみんな殺されちゃったんだと。……ああ、そいつはね、なんだったっけ、番頭さん?だったんだと。みんなってのは住み込みで働いてた人とか、店長の家族とかじゃねぇの?で、それで恨めしくて出て来るのかって聞いたら、こうひらひらっと袖を降ってだなぁ
「いいえ、そうではございません。一つお願いがございまして。頼まれてはいただけないかと、
「あの晩、手前は最後まで帳場におりましたので、それで賊と鉢合わせをいたしたものですから、頭らしい男の顔を見ております
「他の者たちは皆、ほっかむりをしておりましたがその男だけはしておりませんで、
「驚きゃぁしましたが、あの顔はよっく覚えております。忘れようったって忘れられるもンじゃぁありません
「眉がコウ太くって、右の耳が千切れているんでございますよ。あれは悪党の顔でございますよぅ。人相の書き甲斐もあるってもんで……ええ、人相書きが回ればすぐにでもお縄がかかりましょう
「それをお伝えしていただきたいンでございます。手前はどうもこちらから動けないようで、
「ええ、長谷川様に、
……アレだよアレ、鬼平!鬼平だぜ?! お前がよく読んでるヤツ!……そう、なんとか盗賊改め……そうそれそいつに伝えてほしいって。なんかこう悲愴な顔して、……まぁ幽霊は大抵そうか、で、彼奴らがお縄になるまで手前は浮かばれません、って言うから、そんなこと言ったってお前今はこれこれこういう時代だからさ、そのなんとか?ももう生きてはいないし、強盗達もとっくにみんな死んでるよって言ったら
「……ああ、そうですか。そうでございましたか
ってなんかシュウっとしちゃってそうしたら色も薄くなって
「二百年とはこれまた長い……気が付きませんでした
「あたしだけがいらぬ気を揉んでこちらに残ってしまったのですね
で、消えたわけだよ……何だその顔は。嘘じゃねぇぞ。おい、……ねぇ……聞いてる?!
カレーうどんをすすり込むのを止め五十川を見ると、五十川は箸を片手に握りしめたまま真剣な目でこちらを覗き込んでいた。
「嘘だと思ってるだろ」
「……いや」
嘘みたいな話だ。
しかし五十川がこんなにもディテールに凝った嘘をでっちあげられるとは思えない。なによりも理由がない。
「嘘つけ」
不貞腐れた様子で五十川は言って、どんぶりに箸を伸ばした。
「おい」
声をかけると、五十川はちろりと目だけをこちらに寄越した。うどんを摘まみ上げた箸もそのままに、お前の口からいそぎばたらきというテクニカルタームが出てきたことは一考に値する、と告げると
「そうか」
五十川はまんざらでもない顔をして、眼鏡を外し、うどんをすすった。
「で」
「で?」
「結局なんだったんだ?」
きょとんとした目を五十川が向ける。
「何が?」
やっぱり眼鏡がないとなにか物足りないなこいつの顔はと思いながら、
「のれん」
と言うと五十川はいきなりカッと目を見開いて
「ああ……」
と呻くような声をもらした。
ああ、聞くの忘れた……。
「……馬鹿」
「……すまん」
「……」
「なんだったのかな」
「……ホントにな」
「のれん、な」
「のれんかぁ……」
それ以来幽霊は出てこない。
かけられたままののれんはぴらぴらと邪魔なことこの上ない。
五十川は相変わらず夕飯をつくりにくる。