イン・ザ・クローゼット
兵隊たちの持っていたランプからぼうっと火が飛び出して、近くの木や草だけでなく、兵隊たちにも燃え移った。兵隊たちはおたがいにぶつかり合ったり、転がったりして身体についた火を消そうとした――そんな状況なのに彼らはまだ歌をうたっていて、アレットはとんでもなくびっくりした――けれども、火はメラメラと燃え上がって、とうとう兵隊たちは消えてしまった(それでも歌声は消えなかった)。王様は、まるで風船の空気が抜けるように小さくなりながら、空でのんびり昼寝をしていた三日月の方へ飛んでいってやっとその端っこに引っかかって止まった。けれども月は王様が重すぎて、地面に向かってずるずると落ちてくる。ちゃんと停まっていたはずの汽車はまるでヘビのように勝手に動き出して、ボールのように弾んで落ちてきたお城の鐘と一緒にさっきアレットとウサギ耳が通ってきた川に、ものすごい音を立てて飛び込んでいった。全部、まばたきをする間に起きたことだった。
まさかこんなことになるなんて思わなかったわ! アレットはちっとも消える様子のない火から妹たちをかばおうと、あわてて二人のところに走った。シャルロットを右手で、ルイーゼを左手でかかえて、女王様はどうしたのかしらと見てみると、
「なんということを――無礼な娘じゃ!」
きぃきぃとわめきながら地団太を踏んでいた。ずいぶんマナーがなってないんじゃありませんこと、女王様? アレットが思わず顔をしかめた時、今度はぐらぐらと地面がゆれた。今まで遭ったこともないくらいの地震に、シャルロットとルイーゼが悲鳴を上げた(本当はアレットだってそうしたかったのだけれど、余計に二人をこわがらせるだけだと思ったので、がまんした)。
「結婚式が台無しではないか! なんたること――」
女王様が叫ぶと、地面はまたぐらりと大きくゆれた。アレットはぎゅっと目を閉じて、妹たちをきつく抱きしめた。そのアレットの手の片方を、だれかがぐいっとつかんだ。
「しっかり僕の手をにぎってるんだよ、お嬢さん!」
どこかで聞いたような言い方だわ、とアレットが思ったのと同時に、アレットとシャルロット、そしてルイーゼを一度にかかえて、ウサギ耳が力いっぱい地面を蹴った。お城のひときわ高い塔に向かって、軽々とウサギ耳は跳ねていく。きゃあっと長く、二人の妹が悲鳴を上げた。けれどもアレットは自分が今空中にいるのだということも忘れて、きりっと前だけを見ているウサギ耳を、ぼうっとなって見つめていた。
とん、と塔の上、張り出したバルコニーに見事な着地を決めると、ウサギ耳はそこでやっとアレットの視線に気づいて、にっこりと笑った。ちょっと憎たらしいくらいにやさしげな笑顔に、アレットの腕の中で妹たちがほぅっとため息をついた。
「さあ、そろそろ君たちは帰る時間だよ、お嬢さん」
アレットにはウサギ耳の言うことが、よくわからなかった。帰る時間って言うけれど、どうやって帰ればいいの? それにこんなめちゃくちゃなことにしちゃったままで、この人を放って帰るなんて。
「わたし――わたし、このままじゃ帰れないです」
「ねえ、お嬢さん、ひとつのことをつかむのはいいけれど、他のことからも手を放してはいけないって言ったじゃないか」
ウサギ耳は言いながら、ポケットをさぐってガラスびんを取り出し、アレットの手にそれをにぎらせた。ガラスびんは、あいかわらずきらきらと赤いような金色のような色で光っている。それは塔の下で燃えている炎の色とも少しちがう、夜の暗がりに慣れた目を突き刺すような光だった。
「アレット、それ、なぁに?」と言いながらシャルロットがびんにさわってみて、「とってもきれいだし、なんだかあったかいわ、アレット」とルイーゼが甘えるように鼻を鳴らした。アレットは返事をすることもできずに、こまってウサギ耳を見上げた。「見てごらん、お嬢さん」と言いながら、ウサギ耳はひょこりと長い耳を動かして、空を指差した。月がさっきどこかに落ちてしまったから、それから空は真っ暗だ。星さえひとつも見当たらない。それに、なんだかさっきよりも空が近くなってる気がするわ。アレットは首をかしげた。
「月が落ちたからねえ、こっちが本当の方角かと思って、空も落ちてきてるんだよ!」
「え、じゃあ――」
「言いたいことはわかるよ、お嬢さん。その内僕ら、つぶれちゃうだろうね」
だからそれより先に帰らなきゃ、とウサギ耳はウインクをしてみせた。あまり緊張感のないしぐさだった。
ウサギ耳はアレットに、ガラスびんのコルクを抜くように言った。ふたを開ければ朝は勝手に出てくるから、とも言った。アレットは思わず言われたとおりにしようとしてちょっと力を入れてコルクを引っ張ってみてから、気づいた。
「それで、あなたはどうするの?」
どうして今そんなことを言うのかなあ、とでも言いたそうな、少し情けない形に顔をしかめると、ウサギ耳は月の落ちて行った方――アレットは川よりもこっちだと思っていたのだけれど、ウサギ耳はもっとずっと遠くだと思ったらしかった――を指した。
「僕は月を元にもどしに行くんだよ、お嬢さん」
ウサギ耳はずうっと、汽車に乗るよりも前から持っていて、あの大騒ぎの中でも絶対に落としたりはしなかった本の表紙を開いた。すると何百ページもある白い紙たちが、あるものは鳥になって、あるものは蝶になって一斉に空に飛んでいった。ああ、この人の物語はもう終わっちゃったのね。アレットは少しだけさみしくなった。
さあ、早くしないともどれなくなる、とウサギ耳はアレットの手を取り、ガラスびんのコルクを抜かせた。そのとたん、びんの中に閉じ込められていた朝の光が飛び跳ねるようにあふれてあちこちに散って行った。ひときわ大きな光はびんの口がせますぎて、なかなか出てこられないようだ。
ウサギ耳はそれを見届けると、さっとバルコニーの手すりに片足をかけた。まるで今にも月に向かって跳んで行ってしまいそうだ。アレットはびんをシャルロットに押し付けて、待って、とウサギ耳の腕をつかんだ。
「行かないで、……わたしまだ、あなたの名前も知らないのに!」
ウサギ耳はびっくりしたように目を丸くしてから、ふとやさしい、ママンかパパのような顔をしてアレットの頭をぽんぽんとたたいた。だからアレットは、てっきりウサギ耳は彼の名前を教えてくれるのだと思った――悪かったね、お嬢さんとかなんとか、言いながら。
けれどもウサギ耳はなにも言わずにさっと片手でアレットの前髪をかきあげて、ちゅ、とおでこにキスをした。そうして笑いながらアレットがポケットに入れていた写真――家族の写真。もちろんアレットもにっこり笑ってそこに写っている――を抜き取って、地面に向かって跳んだ。
「待って……ッ!」
「アレット、お日様が出たよ!」
「アレット、早く!」
シャルロットとルイーゼがそれぞれアレットの右手と左手をぎゅっとにぎって、ガラスびんから飛び出したばかりの太陽に飛び込んだ。ああ、朝が来るわ! アレットは叫んだ――ひょっとしたら、ウサギ耳の、教えてももらえなかった名前を。
作品名:イン・ザ・クローゼット 作家名:みらい