ゆめくい
×××
――八月某日午後十時前。
「ばく、さん」
言葉は発する事で力を持つと父は言っていた。それは本当だ。心で強く思って発すれば、本当に言霊となって力になってくれる。名前を口にして、心で強く願う。止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ。目の前のばくさんの動きが些か歪になる。引き抜かれたはずのナイフは中々振り下ろせないのだろう、手が震えていた。
「ヘェ。キミ、そう言う娘なんダ」
「面白いでしょう? 私、本当に最近だけどこんなことが出来るの。一度は神様に見捨てられたって思ったけど、神様は代わりにこんなものを残してくれたのよ! 私こそが箱舟に乗るに相応しいわ! だってそうでしょう? 私を殺そうとしたマキも、殺しに来た彼方も、私が返り討ちにしちゃうんだもの!」
コールタールは収まった。たぶんこれは一時だ。また、溢れ出す前に。早く、その喉を掻き切らせなければ――ならないッ。
「ばくさん、自殺して」
強く強く強く強く強く、望む。言葉は刃。孕んだ狂気を乗せて祈りを込める。すっとナイフがその百合に似て白い首筋に宛がわれた。歓喜。殺人鬼、殺し屋に私は勝てる。勝った、神様こんな素敵な力を私にくれてありがとう! 『マキ』ではなく、私にくれてありがとう!
――天井を仰いだその一瞬。コールタールを吐き出す痛みよりもずっと、ずうっと凄まじい痛みが胸を襲った。
「――ァ……?」
下弦の月をくちびるに乗せたばくさんの手にあったはずのナイフが今は無い。痛い胸を見れば、トッとそのナイフが刺さっていた。イ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ! 叫び声ではない悲鳴が上がった。
「ど、う、してッ……!? ばくさんの名前は、ちゃんと……っ!」
"セツメイ"を求めれば、ばくさんは至極うんざりとした顔をした。どうしてなんて何故訊くのかわからないと言った雰囲気で、けれど私は未だかつてきちんとした"セツメイ"を受けたことが無いのでとても知りたい。
「ワタシの名前なんて所詮くだらない、ただの文字でしかないんだヨ。支配出来るものなら斬ることが出来るし、そもそも意味の無い名を支配されてもキミを殺害するという目的がある限り、それを遂行するまでは死なない」
「そ……、な……」
だってそれじゃあ機械だ。ただ言われたことだけをやって生きる。それがどれだけつまらないことかを私は知っている。だから、『マキ』になったのに。どうして私は『マキ』みたいな人に殺されなくちゃいけないの。神様神様神様神様神様神様、――――神様ッ!
「キミが信じるものを別に否定するわけじゃあないし、キミの思想もまァある意味正しイ。けど、神様なんて居ないんだヨこの世界には。居るのは、馬鹿みたいにただ生を無駄にしているニンゲンだけ」
下弦の月が音も無く嗤う。出逢って初めて、それを薄気味悪いと思った。私は『マキ』に負けたくなんか無かったのに。『マキ』が私を恨んだ分より、私が『マキ』を恨んだ方が大きかった。だから神様がこの力を与えてくれたのに。どうして。ど、う、し、て?
「門を叩きすぎたら鬱陶しがれるのがフ、ツ、ウ、デ、ショ?」
振りかざされたナイフが落ちる前に、必死に名前を叫んだ。止まれ、止まれ、止まれ、祈ったのに、届かない。望んだのに、叶わない。どうやっても、ばくさんは止まらなかった。