ゆめくい
×××
この行いを神様が裁くとしたらそれは間違いだ。裁かれるべきは私ではなく、神様の存在そのもの。だってどれだけ祈っても神様は私を助けてくれなかった。だって沢山たくさん祈っても、救われたのは私ではなく『マキ』の方であったのだから。だから私は裁かれない。人の世の法律に裁けても神様には裁けない。ノアの箱舟に乗る権利は十二分にあるのだ。
「ぅ――ェ――ッ」
コールタールが口の中から溢れ出た。醜いコールタール。汚いコールタール。お腹を押さえて喉奥から溢れ出続けるコールタールを地面にぶちまけた。人が通らなくて良かった。見られたら私は羞恥で死ねる。こんな姿を見られたくない。コールタールが地面に飛び散る。テラテラと、色の無いコールタールは喉を焼きながら地面をも焼いた。苦しくて悲しい。こんな自分が本当に嫌になる。神様は何時だって理不尽だ。この世界は何時だって理不尽だ。姿カタチも同じで、それなのに与えられるものはゼロから百まで全部違う。どうしてなのか、誰も教えてくれない。"セツメイ"もしてくれない。それで納得しろと言う方が奇妙しいのだ。だから私は"セツメイ"を求めた、だけ、なのに。
「いたい……」
頭が、手が、足が、喉が、お腹が、――全身が!
壁伝いに電灯が切れた道を歩く。途中途中、口の中から何度もコールタールが溢れてしまって本当にみっとも無く思った。私は何時からこんなに汚くなってしまったのか。私は何時からこんなにもコールタールにまみれてしまったのか。ならばいっそ陵辱された方がマシだ。拷問された方がマシだ。だってこんなの、それ以上に辛い。私の存在意義<レーゾンデートル>が何処にもないなんて、そんなの酷い。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。あんな、誰にでも愛敬を振り撒いてただただ賛美を受けるだけの神様なんて、私、が、殺、シ、テ、ヤ、ル……!
「ウン、それは無理だヨ」
家まであと十歩も無い、その間に。見知らぬ影が立ちふさがる。この真夏に暑くないのだろうか真っ黒いコートを着込んだ男の人。けれど髪の毛の色が落ちてから染めたのかそれとも元からなのかは定かではないが、月明りがあればきっともっと綺麗に煌いたのだろうと思うほど爽やかな銀色。瞳は兎のように朱かった。
「だれ……ッ」
喋る度にコールタールが口の中から溢れた。ああ見ないで。私を見ないで! 汚い私をどうか見ないで。こんなにもコールタールに塗れてしまった私をどうか見ないで。私は存在していても意味が無いから、私なんかに構わないでッ!
「殺し屋」
生温く風が男の髪を攫った。それがあんまりにも綺麗で、ついつい見惚れてしまった。手で口元を押さえてもコールタールは隙間を見つけて溢れ出している。それ、でも。見惚れてしまった。こんなにも綺麗なイキモノがこの世界に居るなんて思わなかった。神様が気紛れで産み落とした、神の御許へ命を返すヒト。そうして洗礼された命はまたこの世界に戻って来るのだろうか。輪廻転生説を信じているわけではないが、目の前の男を見ていると信じたくなる。きっと私は此処で殺される。本能が言うのだ。この男からは逃げられないと。この男は必ず私を殺す、と。だから逃げても無駄なのだろう。ならばせめて、私に出来ることをすべきだ。
「最期に、名前を教えてくれませんか……?」
コールタールを我慢して、お腹を必死に擦りながら問うた。男の人は朱い目を瞬かせて空と同じ下弦をくちびるで再現した。
「獏だヨ」
「ばく、さん……」
――これが、私に出来ること。
脳ミソに名前を叩き込む。逃げられないなら逃げなければいい。殺されるならば先手を打てばいい。な、ま、え。たったの数秒で理解出来たその文字列は唇にすぐに乗った。私はノアの箱舟に乗るのだから、こんな場所ではもたつけない。世界の終わりを見届けて、新世界を踏みしめるのだ。――さあ、血肉の御馳走を集めた謝肉祭を始めましょう?