盲いた男
南方から引き上げてきた職業軍人上がりの男にしては、彼の戦後はまずまず順調だったと言える。収容所で習い覚えた片言の英語を武器にして、彼はすぐに進駐軍の倉庫整理という割のいい仕事を見つけた。
そうなると、男やもめの一人暮らしに必要なものは後妻であると、周囲は勝手に決め付けるが世の習いであるらしい。一度で構わぬから会ってみろと妻の骨を預かっていてくれた中年女に押し切られ、その年の初冬、彼は見合いを受けた。
相手の女は、こちらもやはり戦争で夫を亡くしたという、二十代半ばの後家だった。連れ子はいないからどうの、今まで夫の家を守ってきたしっかり者だのと仲人の中年女が喋るのを適当にうなずきながら聞いていた彼は、ふと向こうの窓の外に――ここはこじんまりとした料理屋の二階だというのにも関わらず――にこにこと中を覗きこんでいる老爺を見つけ、思わず箸でつまんでいた芋を取り落としそうになった。慌てて相手の女と仲人を見やるも二人は気づいた様子もないから、なるほどあれは『見えぬ』類のものかと諦めた。
頃合を見計らって手水にと断り、そそくさと座敷を抜け出すと、どこから忍び込んだものか老爺はやはりついて来る。人目につかぬ場所で立ち止まり、こっそり持ち出した猪口に一杯の酒を差し出しながら、彼はため息をついた。老爺は彼の嘆きに気づいたふうもなく、「おう、おう」と嬉しそうにそれを受け取った。
「昨今、珍かな才あるお人じゃの。美味い酒をもらった、お礼にいいことを教えてあげよう。知りたいかね」
「知りたい。だが、ご老人、俺は見合いの最中だ。手短にお願いする」
「せっかちじゃの。まあ構わぬ、よくお聞き」
くいっと猪口を傾けて酒を飲み干すと、一転、老爺は真面目な顔つきになって言った。
「桜の君がの、消えてしまうぞ。早く行っておあげ」
桜の君、とぼんやり繰り返した彼は、老爺から猪口を押し付けるように返された途端にはっと気づいた。身近にそう呼ばれるにふさわしいものなど、ひとりしか思い当たらなかった。
「よしの――よしののことか!」
老爺はうなずきさえしなかったが、わずかに目を細めてひゅるりといずこかへ消えた。
それが動かぬ肯定の証のように思えて、座敷に置きっぱなしにした上着も見合い相手も仲人も忘れ、ほとんど青ざめて彼は料理屋を飛び出した。シャツ一枚きりの薄着に寒さはどうにも堪えたし、「よしの、よしの」と動転して大声で呼ばわりながら往来を走る大の男の姿に道行く人びとはぎょっとしたような目を向けたが、そんなことは気にもならなかった。だが、気にもしない自分はひょっとすると気狂いなのかもしれないとはちらと考えた。
果たして軍隊時代にもこれほど必死に走ったことがあったろうかと訝しむほどに駆け、ようやく帰った家で、よしのはぼんやりと仏壇の前に座り込んでいた。それはこの凛とした女には常にない様子であり、そも、よしのは彼が特に用事があって呼ぶ時しか姿を見せぬ、傲慢なような、慎ましいようなところがあった。だから彼女の姿を、その名を呼ばぬ内から見たという事実は、彼を動揺させるに十分な、老爺の言葉に対する説得力を持っていた。
よしのは振り返り、おぬしか、と少しだけ笑った。息を弾ませ、うっすらと汗さえ浮かべながらそれでも血の気を失った彼の顔に、よしのはあらかたのことを悟ったようだった。
「この辺りは、元から土が悪いでな。水廻りがうまく行かぬで、根腐れておるのよ」
長い裳裾に隠れた足を、よしのは自ら労わるようにさすった。その儚げな姿に近付くこともできず、立ち尽くして彼はうめいた――いつからだ、と。いっそ怒鳴ることができれば幸せだったと思った。
「さて、な。我にもわからぬわ。ただ我は――」
よしのはめずらしく言いよどみ、そっと目を伏せ、……ためらうように顔を上げて彼を見つめた。
「おぬしを待っておったのじゃ」
まるで堰が切れたようだった。くずおれて膝をつき、女の衣にすがりついて、胸を焼く哀しみにも似た熱さに突き動かされるようによしのの名を呼ばわりながら、彼は泣いた。これは決してよしのに対する卑しい劣情などではなく、彼女を失うことへの哀しみでさえなく、そうしたものどもによく似てはいたが、もっとずっと汚らしいエゴイズムなのだと知っていた。
「お前は――お前も俺を置いて逝くのか、ここにはもう誰もいないのに、俺だけが、俺だけが……!」
ただ、独り生き残ることだけが恐ろしかった。部隊は死に絶え、妻と、生まれることすらなかった息子も失った。彼に見えるものが見えぬから皆死ぬのであれば、せめて共に逝くことさえ許されぬ彼の傍に、そうしたものどもだけは残らねばならなかった。そう信じていた。
哭するように伏せった彼によしのは困ったように手をかざし、幼子にするようにその頭を撫でた。たわけたことを言うでない、とたしなめる声は、しかし言葉の中身を裏切るように優しげだった。
「我はただ、すこぅし眠るだけじゃ。また戻って参ろうぞ。……それに、おぬしを待っておったのは我だけではない」
そら、とうながされて顔を上げると、驚いたことに、彼の頭を撫でていたのはよしのばかりではなかった。そこには女がいた。赤子を抱えて、実は仙女であったかとも思うほどの美しい笑みを口元に刷いていたのは、死んだはずの妻だった。
彼は唐突に理解した――もとより、盲いていたのは彼だけであったのだと。
「あぁ――ああ、ここに、いるのか」
瞬間、世界のあらゆる物事がようやくぴたりときれいに収まったような安堵感が押し寄せて、彼は強く抱きしめた。彼を独りで残しはしない、大切なものどもを。