盲いた男
幼いころから、他人(ひと)には見えぬものがよく見えた。軍人などという現実的な職に就いたのは、だからだろう――そうして恐らく、独り生き残ってしまったのも。
南方のどことも知れぬ深い山の中、前の隊の人影を追っていたはずが、どういう理屈か彼ばかりはぐれていた。先を行くそれが戦場などにはいるはずのない幼い少女だと気づいた瞬間と、誑かされたかと振り返れば連れていたはずの部下たちさえ一人としていなかった瞬間の絶望などは、一生涯誰にも理解されることはないのだろう。
なんとか部隊に合流しようと何日も何日も密林を彷徨い、ようやく海岸線に出た時には、戦争はすでに終わっていた。投降兵の収容所で聞いた話では、所属部隊は全滅したという。物の怪に化かされたのだなどという言い訳を人が信じてくれるはずもなく、卑怯者よ裏切り者めと誹られ疎まれ、後ろ盾も得られぬ彼の帰国が叶ったのは、実に終戦から四年後の春のことだった。
――そうして引き上げ船を降り、焼け残った自宅の前に、今、立ち尽くしている。家はもぬけの殻だった。
近所の中年女曰く、妻は終戦の年の五月にあった空襲で亡くなったという。空襲警報が出るや否や隣組で誘い合うようにして逃げたらしいが、避難先で火の粉にまかれて焼け死んだとあっては、家ばかりが焼け残ってもまるで意味がない。
「そうそう、これがお骨。ちゃんと供養してあげてくださいね」
「四年も預かっていただきまして、……すみませんでした」
何故かさしたる哀しみも湧かぬままにのろのろと玄関の引き戸を開け、土足のまま中へと上がり込む。家は掃除をする者もおらずに埃が厚く積もり、打ち付けた雨戸のせいで暗かったが、造りそのものは傷んでもおらず、暮らすに不便はないようだった。座敷の襖を開け、妻が空襲から逃げ出した当時のまま、先祖の位牌だけが――妻が持って逃げたのだろう――なくなっている仏壇に骨壷を置くと、雨戸をほとんど剥ぐようにして開けた。とたん、温かな午後の日がざあと光を投げかけて、彼は思わず目を瞑った。
目を開けた時には、猫の額ほどもない狭苦しい、雑草の生い茂る庭に、絢爛たる風情で咲き誇る桜の若木と、それに寄り添うようにすらりと立つ女の姿があった。
「生きておったか、久しいことじゃの」
古風な桜重ねの衣をまとい、結い上げぬ長い黒髪をゆるく風に流したその女を、彼はよく知っていた。
「お前こそ、よく焼け残ったな、――よしの」
「毛唐どもの怪しげなわざなど、取るに足らぬで片腹痛いわ」
よしの、と呼ばれた女はまだ若い見目をしていたが、その年にはふさわしいと思われないほどにりゅうとした、落ち着いた物言いとしぐさをしていた。それでもほほ、と軽やかに笑う様子はどこか娘めいていて愛らしい。こぼれた笑みに誘われるようにはらりはらりと、枝々から白とも見紛うほどに薄い桃色の花弁が舞い落ち、南方では決して見ること叶わなかったそのどうにも美しく愛おしい光景に、彼はしばし目を奪われた。
「――美しいな。花は、桜が一番美しい」
「ふん、世辞を言うても何も出ぬわ。そも、長く家を空けておきながら我に先に話しかけるとはいかな了見じゃ。無礼な奴じゃ」
「おい、この家には今はお前しかいないだろう。まさかあれが死んだのを知らないわけじゃああるまい」
知らぬ間に座敷に上がり、仏壇に手を合わせかけていたよしのは、一瞬ぎょっとしたように彼を見やった。そうしてそれから痛ましそうに骨壷を拝みながら、鈍い奴じゃと毒づいた。彼にはその言葉の意味が、よくわからなかった。
ただ理解できることがあるとすれば、妻は、冥福を祈ってもらえる程度にはよしのに好かれていたらしい。そんなことをぼんやりと考えていると、不意によしのはおぬしの妻は、と口を開いた。
「おぬしの妻は、我が見えなんだ。行ってはならぬと言うたのじゃが、腹におぬしの童を入れたまま飛んで行きおった」
「俺の子……ああ、手紙で、名前を考えてくれと言われたな。男の分と、女の分と、両方考えていたんだが」
無駄になってしまった、と言うと、よしのは生まれれば男であった、と頭を振った。
「名付けてやるが良い。妻ともども、丁寧に弔ってやるが良かろうぞ」
ああ、と答えながらも、彼はぼんやりと庭の桜を見つめ続けていた。妻と息子が死んだのは、よしのが見えぬからだった。ならば自分が生き残ってしまったのはそうしたものどもが見えたからなのだろうと思うと、どこか寂しく胸が疼いたような気がした。
南方のどことも知れぬ深い山の中、前の隊の人影を追っていたはずが、どういう理屈か彼ばかりはぐれていた。先を行くそれが戦場などにはいるはずのない幼い少女だと気づいた瞬間と、誑かされたかと振り返れば連れていたはずの部下たちさえ一人としていなかった瞬間の絶望などは、一生涯誰にも理解されることはないのだろう。
なんとか部隊に合流しようと何日も何日も密林を彷徨い、ようやく海岸線に出た時には、戦争はすでに終わっていた。投降兵の収容所で聞いた話では、所属部隊は全滅したという。物の怪に化かされたのだなどという言い訳を人が信じてくれるはずもなく、卑怯者よ裏切り者めと誹られ疎まれ、後ろ盾も得られぬ彼の帰国が叶ったのは、実に終戦から四年後の春のことだった。
――そうして引き上げ船を降り、焼け残った自宅の前に、今、立ち尽くしている。家はもぬけの殻だった。
近所の中年女曰く、妻は終戦の年の五月にあった空襲で亡くなったという。空襲警報が出るや否や隣組で誘い合うようにして逃げたらしいが、避難先で火の粉にまかれて焼け死んだとあっては、家ばかりが焼け残ってもまるで意味がない。
「そうそう、これがお骨。ちゃんと供養してあげてくださいね」
「四年も預かっていただきまして、……すみませんでした」
何故かさしたる哀しみも湧かぬままにのろのろと玄関の引き戸を開け、土足のまま中へと上がり込む。家は掃除をする者もおらずに埃が厚く積もり、打ち付けた雨戸のせいで暗かったが、造りそのものは傷んでもおらず、暮らすに不便はないようだった。座敷の襖を開け、妻が空襲から逃げ出した当時のまま、先祖の位牌だけが――妻が持って逃げたのだろう――なくなっている仏壇に骨壷を置くと、雨戸をほとんど剥ぐようにして開けた。とたん、温かな午後の日がざあと光を投げかけて、彼は思わず目を瞑った。
目を開けた時には、猫の額ほどもない狭苦しい、雑草の生い茂る庭に、絢爛たる風情で咲き誇る桜の若木と、それに寄り添うようにすらりと立つ女の姿があった。
「生きておったか、久しいことじゃの」
古風な桜重ねの衣をまとい、結い上げぬ長い黒髪をゆるく風に流したその女を、彼はよく知っていた。
「お前こそ、よく焼け残ったな、――よしの」
「毛唐どもの怪しげなわざなど、取るに足らぬで片腹痛いわ」
よしの、と呼ばれた女はまだ若い見目をしていたが、その年にはふさわしいと思われないほどにりゅうとした、落ち着いた物言いとしぐさをしていた。それでもほほ、と軽やかに笑う様子はどこか娘めいていて愛らしい。こぼれた笑みに誘われるようにはらりはらりと、枝々から白とも見紛うほどに薄い桃色の花弁が舞い落ち、南方では決して見ること叶わなかったそのどうにも美しく愛おしい光景に、彼はしばし目を奪われた。
「――美しいな。花は、桜が一番美しい」
「ふん、世辞を言うても何も出ぬわ。そも、長く家を空けておきながら我に先に話しかけるとはいかな了見じゃ。無礼な奴じゃ」
「おい、この家には今はお前しかいないだろう。まさかあれが死んだのを知らないわけじゃああるまい」
知らぬ間に座敷に上がり、仏壇に手を合わせかけていたよしのは、一瞬ぎょっとしたように彼を見やった。そうしてそれから痛ましそうに骨壷を拝みながら、鈍い奴じゃと毒づいた。彼にはその言葉の意味が、よくわからなかった。
ただ理解できることがあるとすれば、妻は、冥福を祈ってもらえる程度にはよしのに好かれていたらしい。そんなことをぼんやりと考えていると、不意によしのはおぬしの妻は、と口を開いた。
「おぬしの妻は、我が見えなんだ。行ってはならぬと言うたのじゃが、腹におぬしの童を入れたまま飛んで行きおった」
「俺の子……ああ、手紙で、名前を考えてくれと言われたな。男の分と、女の分と、両方考えていたんだが」
無駄になってしまった、と言うと、よしのは生まれれば男であった、と頭を振った。
「名付けてやるが良い。妻ともども、丁寧に弔ってやるが良かろうぞ」
ああ、と答えながらも、彼はぼんやりと庭の桜を見つめ続けていた。妻と息子が死んだのは、よしのが見えぬからだった。ならば自分が生き残ってしまったのはそうしたものどもが見えたからなのだろうと思うと、どこか寂しく胸が疼いたような気がした。