アドール
本格的に式場を借りていたわけではなかった。地元にある小さな教会に頼み込み、待合室だけを少しの間使わせてもらっている。
佳那は彼女のウェディングドレス、僕はあの日のために新調したスーツをそれぞれ着込んで、指輪の交換を形だけ済ませる段取りだった。その指輪の交換も、頭の中ではもの凄く厳かなものだと思い込んでいたのに、いざやってみると、なんともあっけのないものだった。
「誓いのキスは?」いたずらを思いついた少女のような顔で、佳那はそんなことを言った。
彼女なりの、場を和まそうとする冗談の一種なのだと気がついてはいたけれど、声を出さずに苦笑することしか僕には出来なかった。
彼女に対して不謹慎だと憤ったわけではない。ちょっと皮肉ったような、天邪鬼なその物言いが、亡くなった彼女の面影を絶妙に表していて、寒気を感じるほどだったのだ。鳥肌を取り繕うので精一杯だった。
ふと、脳の端に過ぎる疑問がある。
佳那が僕にこれほどまでのことをしてくれる理由は、一体どこにあるのだろう。
「ねえ、」そんなことを考えていると横から、佳那の細い声が届く。
「なに?」
「この窓、おっきいわね。枠も、みて、この装飾」
うっとりと囁きながら、佳那は両手で窓枠を撫でさする。幅が太く、遠目から見れば無骨にしかみえないそれは、近づいてよくよく眼を凝らしてみると、実に細部まで彫り込まれた飾りが行き届いていた。
鳥がいる、花が咲いている。開け放された窓をぐるりと取り囲むその枠の中でだけ、独立した物語が展開されているようだった。
眠っている猫を描いた小さな窪みに指先で触れたあと、「よいしょ」、控え目な掛け声とともに、佳那はその窓枠に外を背にして腰かけた。
「おい、危ないぞ」背もたれ等は何もなく、その状態は見るからに不安定だった。時たま吹いてくる風が肩までの髪を揺らしている。
「大丈夫」、と彼女は笑った。「落ちたとしても、ここは2階だもの。死んだりはしないわ」
その言葉に、素直に賛同するわけにはいかなかった。
「万が一ってことがある、いつ何が起きてしまうかわからないんだから」
「そうね。不運はどこにでもついてまわるわ」
肩越しに外の様子を窺うように、佳那は僅かに振り向きながら両足を交互に揺らす。初めて観覧車に乗り、夢にまで見た空からの景色に静かに心を高鳴らせている少女のような趣きだった。
「空っていい。どんな色をしていても、解放感があって」
このおままごとはいつまで続くのだろう、佳那との他愛もないこのお遊びは。
「吸い込まれていきそう。どんなに重たい気持ちでも、空なら受け止めてくれる気がする」
囁くような独白を聞いている。不意に沸いてきたあくびを必死で噛み殺した。
この真似事に、僕は飽きてしまったわけでは決してない。現に僕だってこの状況を充分楽しんでいたし、佳那のことを彼女だと心から思い込んで、佳那越しに彼女を愛し直した。
ただ、僕の心臓の表面には、佳那がこのゲームの提案を持ち出してきたあの夜からずっと、濃すぎる感情の膜が張っている。
これは、僕自身は信じたくはないのだけれど、恐らく間違いなく恐怖の膜だ。
僕はこわい。彼女に似過ぎた佳那がこわい。
「弘輝さん」いつの間にか、彼女の両目は僕の方へ向いていた。慌てて彼女に目を戻す。またもや鳥肌が立つのを感じた。
「ん?」
「今日はありがとう」
「……え」
「とっても、楽しかった」
柔らかく微笑んだ彼女の目元から、徐々に色が薄れていく。美しい焦げ茶だった瞳孔の中心から白が滲み、それはじわじわと黒目を侵してやがて、白目へと完全に溶け込んだ。
佳那の背後から忍び込んでいた陽の光が、彼女の髪の毛の一本一本を隙間まで丁寧に照らし上げている。その一ミリに満たない毛先の末端から、徐々に白が襲う。ゆっくり、ゆっくりと、美しい黒髪が見違える白髪へ。そして、辺りを覆い尽くす橙色の太陽光に溶け込むように消えていった。 気付けば、佳那の顔面の表面積は通常の半分以下になっている。辛うじて取り残された右の目玉で僕を、見ている。
見ている。
「……佳那」自分の発する声が、驚くほど震えているのが嫌でもわかった。目の前で実際に起こっている事象を、僕は見たまま受け止めることが出来ない。
「………………」
佳那の唇が、ぱくぱくと平坦な動きを見せ、何か言葉を紡ぎ出そうとする。しかしその口元だってもう透明だ。透けて向こうの景色が見えている。窓の向こうに横たわる海の色が鮮明に浮かぶ。遮るものが消え、ここぞとばかりに射し込む陽の光を、全身に浴びた。
パサリ。佳那の着ていた純白のドレスが、主を失って力なくその場に倒れ伏す。空虚が心を埋め尽くし、指を動かすこともためらう静寂の中で、そのドレスもやがて、ひっそりと息を引き取るように、大気の一部となった。
静寂が、色濃くその存在感を強める。自分の吐き出す細い息の音に気付いたのが数分後、その間に部屋の中でうごめく物といったら、吹き込んでくる風に揺れているレースのカーテンくらいだった。