アドール
ちょうど、愛する彼女の三回忌を迎えた夜だった。
「弘輝くん」、ぽつりと、控え目な声がドアの向こうから聞こえて振り向くと、数センチほど開けた隙間から覗く小さな顔がみえた。
「あれ……、佳那、どうした」言いながら手を招き、部屋に入るよう合図する。
佳那が一人で僕の部屋を訪れるのは、とても珍しいことだった。双子の姉を不運な事故で亡くしてから、元々内向的だった彼女はますます塞ぎがちになっていき、やがて、僕と話す時でも目を見ないようになった。
久々に正面から直視した彼女の瞳は不安そうにふるりと揺れている。だけど、違和感を抱くほど強い意志の色が、そこから見てとれた。
「ちょっと、話したいことが」
「話したいこと?」
「座っても?」
「あ、うん、そこいいよ」
ベッドの上を指すと、佳那は静かにそこに腰を下ろした。
沈黙が空間を満たし始める。
そっと、呼吸を整える彼女の息遣いだけが響く。
「姉さんが死んじゃって、今日で、三年経つけど」
「うん……、早いような、すごく遅いような」
「まだまだ忘れられてないでしょう、癒えて、ないでしょう」喉の奥から絞り出すような、声だった。
僕は正直、彼女の、佳那の目を見るのがとても怖かった。その顔を、その姿を、仕草を、視界に収めること自体に驚くほどの精神力が要った。
似過ぎているのだ。僕の愛した彼女に、佳那の双子の姉その人に、恐ろしいほど似ているのだ。 二言三言、言葉を交わすだけでも僕の心臓は、壊れてしまう寸前にまで震え上がった。
そんな目で、佳那は僕を見つめてくる。喉がぎりぎりと絞り上げられるように詰まり、息が出来ない錯覚を覚える。それと同時に、何度も僕の脳裏に浮上してきたあの、汚すぎる澱みきった感情が一瞬でせり上がってくる。
(癒えているわけないじゃないか)
癒えてるわけない忘れるわけない元通りになるわけがない!
どうして、どうして佳那は今更こんなことを訊いてくるんだ、そんなことして何の意味がある?
たった三年だ、僕たちはずっと好き同士で、愛し合っていて、彼女が事故に遭う寸前に婚約して式の日取りまで決めていたのに、あの日に全部白になった。満たされていたものがゼロになった。それなのに、僕が出来たことといったら、彼女の突然の死を必死に悼んでやることくらいで。そんなことしか、できなくて。
夜になる度に思う。どす黒く濁った気持ちが心の表皮を撫でていく。
どうして、彼女だったんだろう。
どうして、彼女でなくてはならなかったのか。
何故、佳那ではなく彼女が――
「式を挙げたいの」、強く張った声は、僕の頭蓋を揺さぶる程の威力があった。全身を冷水に浸けこんだような感覚。即座に思考が冷えて、そこでようやく彼女の視線を、大人しく受け止められるようになった。
式。
その言葉はまるで、僕の目の前にぶら下げられた餌のように、甘美な聞き触りを伴って揺れた。
「式……?」口先で発音した声は思わず震えた。
「結婚式。結局、挙げられていないでしょう」
「そうだけど、でも……結婚式は、相手が居ないと」
「私が着るから、ドレス」
「え」
「私が、姉さんの代わりをする」
聞こえてきた言葉が、人の言語とは思えなかった。ただの無機質な単語の羅列にしか思えず、聴覚が拒絶しているのを自覚する。
佳那が代わり。彼女の、代わり。
偽りの存在、虚構に塗れた結婚式の真似事。考えただけで、胃の腑が縮み上がった。
許されることじゃない。正気なのだろうか。
「日取りを決めましょう」
「ちょっと、待って……本気で言ってるのか、それ」
「本気じゃなかったらここまで来ない」
「そりゃ、そうだろう、けど」
「その日一日だけは、私のこと、姉さんだと思って」
視線の力は変わらないまま、佳那は僕を見据え続けた。強く強く、まるで、絡め取ろうとでもするかのように。
「ね、私のこと姉さんだって、心から思い込んで。難しいことじゃない」
似ている。顔も仕草も表情の作り方も服のセンスも、全部。唯一違っていたのはその話し口調だけ。それ以外、佳那は彼女そのものだった。恐ろしいほどに、泣きたくなるほどに。
頷いた自分が、信じられない。
結局、式という言葉の魅力に抗えきれなかった僕の、負けだった。
「弘輝、さん」、佳那の両手が僕の両手を包み込む。その暖かささえ、彼女を彷彿とさせた。「幸せな式にしましょうね」
カチリ、と妙な音がした。
今思うにあれは、自分が正常な人生のルートから外れてしまった音、だったのかもしれない。