いお夜話
背に負ったかごをよいしょと抱え直して、獣道を辿る。人の中での暮らしにもとうに慣れ、イオにも野山に分け入り食べられる草を摘むことくらいはできるようになっていた――それはもちろん、ひとえにトゥレシのおかげなのだけれど。
そうと知らぬ間に川の水は冷たく冴え渡るようになり、山の木は黄色く赤く色づいた。そうして季節の変化が目にも見えるようになると、トゥレシはしきりとくさびらが食べたい、とこぼすようになった。イオと出会ったあの日もそうだったように、トゥレシはしばしばくさびらを求めて山へと分け入るようだった。
「イオがゆこう。トゥレシはむらでやくめがあるのだろう。だからイオがトゥレシのために、くさびらをさがしてくるよ」
そう笑いかけることができる程度には、イオはトゥレシが好きだった。それはかつてどうしても覚えることのなかった本能とは違うようにイオには思えた――これはもっとふくざつな、たとえばかんじょうとかトゥレシがよぶものだ。
落ち葉を踏みしだいて斜面を上りながら考える。そう、イオはトゥレシが好きだ。だが、イオはトゥレシとは違うものだ。彼は孕まず、孕ませることもできず、そも人でさえない。ならば知らぬふりをするがよい思いなのだろう。イオにはどうしてもトゥレシがほしいというような、強く彼の身を滾らせるような衝動はなかった。ただ彼女が笑っていてくれればそれでよいと思えた。
くさびらでかごがいっぱいになると、イオは飛ぶようにして山を下った。考えごとの間に、思いのほか奥深い場所まで足を踏み入れてしまっていたようだった。
そうしてようやくイオは細い川に行き当たった。それは四つ前の季節、つまり今から数えて一年前、彼とトゥレシが出会った場所で、イオはふと懐かしい気分がこみ上げてくるのを感じた。人と同じ姿になってトゥレシに想いをよせてなお、イオは澄んだ水の流れが好きだった。
でもトゥレシはイオをまっている、だからはやくかえらなくては。ふふと笑って踵を返したその途端、イオはひょうふ、と空を切る音を聞いた。どづ、と身体が鈍く肉を切る音を聞いたと思った時には、イオの左胸には鷹の羽根を使った見事な矢羽が生えていた。
世界がくるりと回転し、イオは無様に川の中にばしゃりと倒れた。水は甘く、それは彼が何よりもなじんだもので、冷たさなど気にはならなかった。横手の藪がざあと揺れ、数人の男が弓矢と鉈をたずさえて姿を見せた。
イオは彼らを見たことがあった。トゥレシの家に何度か、供え物を持ってきた男たちだ。中でも際立って背の高く、立派な男が口を開いた。
「トゥレシはお前と夫婦になりたいと言った。彼女は村の巫女なのに」
「イオ、は……そん、な、しらな――」
「お前は悪くはない。だがトゥレシが巫女でなくなるのは困る」
男たちは謝りはしなかったが、山の神と河の神に短い祈りをささげて村へと戻って行った。イオは水の中に倒れたまま、それをぼんやりとながめていた。
恐ろしいことも、哀しいこともない。イオはそうした感情など知らなかった。だが、ああ、ひとつだけ心残りというのなら、トゥレシがイオを待っている。イオはもうトゥレシのところには、帰れそうにないけれど。
どのくらいしたころか、彼はイオ、と彼を呼ぶ声をかすかに聞き、そうして自分がイオと名づけられたことを思い出した。その名は誰がつけたのだったか――人の娘だ。トゥレシといった。
ばらばらにほどけていた『イオ』が彼の中から再び拾い上げられ、組み立てられてゆく。のろのろと目を開くと、トゥレシがイオの頭を抱きかかえてはらはらと涙をこぼしていた。そのしずくは川の水にも勝るほど甘く、後から後からそれをあふれさせて止まないトゥレシの目を食んでしまいたい、とイオは思った――思って、少し笑った。なるほど、これがきょうだいたちばかりが知っていた、本能か。
「イオ、イオ、お前を殺したのはだれ? この矢羽が誰のものか、わたしは知らない!」
ぎゅう、とひときわ強くイオの頭を胸に抱えるトゥレシはひどく弱々しく、イオはそんな彼女を知らなかった。イオは手を伸ばして彼女の頭をなでてやったが、そうするとトゥレシはひぃ、と喉の奥で悲鳴のような泣き声を鳴らした。
「イオは、し…しぬ、のは……こわく、ない」
でも、とほとんどささやくようにイオは言った。
「ひと、ひとつ、だけ――トゥレシに、た、のみが、……」