ひとつの恋のカタチ
4、冴子の場合
「ああ、気持ち良い!」
そう言って、勢い良くプールから顔を出したのは、小林冴子。中学三年生の少女である。
「冴子ってば、水を得た魚みたいだね」
プールサイドからそう声を掛けたのは、同じ部活の同級生、竹脇亜由美だ。二人は水泳部に所属し、夏休みの間も毎日練習に励んでいた。
「だって、塾や何だで、昼間の今しか泳げないんだもん。もう引退だしね」
「どう。受かりそう? 海栄南」
亜由美が尋ねる。
海栄南とは、冴子が目指している高校である。都内でも有数の進学校のため、冴子は猛勉強に励んでいた。
「まだギリギリかな……亜由美は頭良いから余裕だろうけど。それに、海栄南より上の学校行くんだもんね?」
「まあねー」
「このー、少しは否定しろ!」
そう言って、冴子がプールサイドにいた亜由美を引き入れた。亜由美はそのまま、プールへと飛び込む。
「あははは。気持ち良い!」
「そうでしょ、そうでしょ」
「ねえ、冴子。今度、高校のインターハイあるんだって。先生行くらしいから、一緒に連れてってもらおうよ」
軽く泳ぎながら、亜由美が言う。
「うーん。塾の時間と被らなきゃ、行きたいな……」
「小安先輩も出るみたいよ」
亜由美の言葉に、冴子の表情が変わった。
「嘘! いつ?」
冴子が、亜由美に食いつく。
「今度の日曜日。行くでしょ?」
「うん。絶対行く!」
そんな冴子の言葉に、亜由美は微笑んだ。
「久しぶりだもんね」
「うん。先輩が卒業して以来。変わっちゃったかな……」
「さあね」
「でも、まだ吉田先輩とは続いてるんだろうな……」
急にしんみりして、冴子が言う。
「さあ……でも、二人は学校違うんでしょ。もう別れてるんじゃないの?」
「どうかな……そんなことないと思う。お似合いの二人だったし……」
二人の言っている先輩とは、小安克人という一年上の先輩である。無名だった水泳部の知名度を一人で上げたような、強い選手であった。
冴子は密かにその先輩に憧れていたが、小安は当時から、同じ部活の吉田夏美とつき合っていたため、冴子はそれを打ち明けることも出来なかった。
そんな冴子の気持ちを知っているのは、亜由美ただ一人。それもまた、冴子から言ったわけではなく、亜由美が気付いただけの、冴子一人の秘めた想いであった。
週末。引率の顧問とともに、冴子と亜由美、後輩たちが、高校生の水泳インターハイを見に出掛けた。独特の緊張感が漂う中で、試合が行われている。
その中で一人、冴子の目を奪う人物がいた。
「冴子、小安先輩いるよ!」
亜由美も気付いて、興奮して言う。
「う、うん」
小安はプールサイドで、ウォーミングアップをしながら試合を見つめていた。そして、ふと観客席を見渡す。
そんな小安と、冴子の目が奇跡的に合った。小安は気付いた様子で、驚きながらも手を振った。
「小安先輩!」
冴子は嬉しくなって、大きく手を振る。
少しして、小安の順番になった。もちろん高校に入っても、小安への期待は大きいため、優勝候補とも言われている。
合図とともに、選手たちが一斉に泳ぎ始める。ダントツの泳ぎを見せる小安の姿は、冴子が知っている時代とまったく変わらない。
しかし、全国から集められた強豪たちを前に、小安の成績も二位で留まってしまった。
「ああ、惜しかったな。小安は」
引率の顧問が言う。
「先生。小安先輩と、話し出来ませんか?」
そう言ったのは、亜由美である。それと同時に、亜由美が冴子の肘を突いて促すので、冴子も口を開いた。
「わ、私も、小安先輩と話したいです!」
「そうだな。少し待ってみるか」
顧問がそう言った時、プールサイドから手を振る人影が見えた。
「先生! お久しぶりです!」
そう言っているのは、小安である。濡れた髪のまま、自ら声を掛けたのだ。冴子は亜由美とともに、急いで小安のもとへと駆け寄った。
「先輩!」
「小林に竹脇。久しぶりだな」
変わらぬ笑顔の小安に、二人は微笑む。
「はい。先輩も、お変わりなさそうで……すごかったです! おめでとうございます」
言葉にならない冴子を尻目に、先にそう言ったのは亜由美である。
「ありがとう。惜しくも二位だったけどね……」
「小安。元気そうだな」
その時、顧問が小安に話し掛けたので、冴子たちは一歩下がった。
「はい、おかげさまで。先生も後輩たちも、変わってなくて安心しましたよ」
「小安!」
その時、小安が呼ばれた。
「あ、コーチだ……じゃあ、バタバタしちゃってすみません。落ち着いたら顔出しますんで」
「ああ。引き止めて悪かったな。頑張れよ」
「はい。じゃあ、みんなも頑張れよ!」
顧問の言葉に返事をしながら、小安は後輩たちにそう渇を入れると、元気に去っていった。
久しぶりに小安の姿を見られて、冴子は舞い上がるくらいの嬉しさを噛み締めていた。
一ヵ月後。冴子は塾を終えて、ヘトヘトになりながらコンビニエンスストアへと入っていった。
「おなかすいて死にそう……」
冴子はそう言いながら、弁当コーナーへ行く。しかし、もう夜も遅くなって来ているからか、品数は少ないようだ。
「小林……?」
そこに、そう呼ぶ声があって、冴子は振り向いた。
「やっぱり小林だ。どうしたんだよ、こんな時間に」
そう言って優しく微笑むのは、冴子の密かに憧れている先輩、小安であった。
「小安先輩! せ、先輩こそ、なんで……!」
「見てわかんない? バイトだよ」
小安はコンビニのエプロンを着て、仕入れたばかりの弁当を担いでいる。
「バイト……知らなかった。塾の近くなのに……」
冴子が呟いた。
「ああ、塾の帰りか。ご苦労さん。今から夕食でコンビニなら、あんまりオススメしないよ。期待の選手なのに」
小安の言葉が、いちいち嬉しく響く。
「期待の選手だなんて……」
「本当だよ。僕が居た頃だって、何度か入賞してたじゃん。自信持ちなよ」
「あ……ありがとうございます……」
「じゃあ、レジ入るから……どうせなら、健康そうな物食べろよ」
そう言って、小安は弁当を並べてレジへと入っていった。
冴子は嬉しさを噛み締めながら、おにぎりを買ってレジへと向かっていく。
「もう遅いから、気をつけてな」
小安が優しくそう言う。爽やかな笑顔とさりげない優しさは、冴子が好きになった頃の小安とまったく変わっていない。
「先輩。ずっと、このコンビニにいるんですか?」
帰り際、冴子が尋ねる。
「うん。不定期だけど、今の時期は結構入ってるかな」
「そうですか」
「また来なよ」
「はい。また来ます!」
元気良く返事をすると、冴子は家へと帰っていった。
その日から、冴子は頻繁に、そのコンビニへ通っていた。毎日小安に会えるわけではなかったが、会えた日には、少なからず会話を交わすことが出来た。
「そうだよな、もう受験か」
その日も冴子は、塾の帰りに小安に会うことが出来た。
「はい。毎日のように塾なんで、ちょっと大変で……」
「どこ受けるか決めてるの?」
小安の言葉に、冴子は一瞬、言葉を失った。無理してランクを上げて塾へ通っているのも、みんな小安と同じ高校へ行きたいがためである。
「海栄南……です」
冴子が答えた。