エイプリル・フール
「お前か。変な冗談は承知しないぞ。何の用だ。」
「怒るなよ。まぁ、要件は確認、かな。僕があげたPC開いてよ。」
「わかった。それだけだな。切るぞ。」
「はいはい。」
電話を荒々しく切った。鞄からPCを取りだし、机の上に開いた。画面を見つめて待っていると、起動を始めた。間もなく、男の姿が画面上に浮かび上がった。
「さっきはどうも。いやなに、ちゃんとお父さんが一人で来ているかどうか確認したくてね。」
「当たり前だ。」
そうだった。ハイド・パークから戻った後、またこいつから連絡が入った。その時に、圭介が一人で行くと約束したのだった。
「じゃあ、夜待っているからね。場所は分かるよね。」
「ああ。7時にクラブ“SEIYA”だったな。」
「よろしく、ばいびー。」
そう言って男はまた画面を切った。部屋がしんと静まりかえった。外で救急車の音がかすかに聞こえる。聞き慣れた日本の音だ。
時計を見た。夕方の4時30を少し回ったところだった。飛行機の中ではずいぶんと寝たが、もう少し仮眠を取ってから出発する事にした。
~第九話~
ホテルを出て少し歩いていたら空腹だった事に気がついた。時間に少し余裕を持って出て来たため、圭介は軽く食事を取ることにした。駅前にラーメン屋を見つけ、中に入った。
「へい、いらっしゃい!」
のれんを潜ると、元気の良い挨拶が飛び交う。中は割と広かった。店主と思しい中年の男が一人とバイトだろうと思える若造が4人。一人は女性だった。客はぼちぼちいる。圭介は券売機で醤油ラーメンの券を買い、真ん中の方の席に座った。
ラーメンなんて食うの何ヶ月振りだろうな、と思い、店中に立ち込めるラーメンのにおいに鼻をひくひくさせた。しばらくしてコトン、と醤油ラーメンが圭介の前に置かれた。
「へい、おまち!」
湯気が元気よくラーメンから上っている。旨そうだ。
箸を割り、勢いよく麺を吸った。五分としないうちに圭介のどんぶりは空になった。ふー、と深呼吸をし、箸を置いた時だった。奇妙な視線を感じた。まただ。
肩の上から右を見る。異常はない。左。特に何もない。店内を見回す。サラリーマンが五、六人、カップル一組、そして親子が一組。これと言った怪しい人はいない。
おかしいな、と思いながら前を向いたら目の前に顔があった。
「うわ!!!」
思わず圭介は椅子が動くほどとび跳ねた。バイトの兄ちゃんだった。圭介の食べ終えたラーメン丼の中を覗き込んでいる。
「お客さん、そこ。」
「え?」
指を差されたところを見ると、ナルトがへばり付いていた。
「あ、ああ。どうも、すみません、ありがとうございます。」
箸でナルトを取り、すばやく口に運んだ。
不思議な気持ちで店を出た。しばらく歩き、ふと思った。そういえば、視線を感じた時はバイトの兄ちゃんはいなかった、という事だった。不気味だな、と思ったが、すぐに忘れることにした。目前にもっと集中すべき事がある。とりあえず、ここからが勝負なのだ。
しかしその前に圭介は一つやらなければならない事があった。彼の目的地はそこから徒歩で行ける所だ。昔の職場、小笠原貿易本部。
訪問する事は事前に連絡してあったため、何の滞りもなく受け入れられた。フロントに名前を言ったところで以前の上司であった木村がすぐに降りて来た。
もちろん当時、木村とは何の変哲もない貿易会社の上司と部下のやりとりばかりをしていた。それに、木村は圭介が入社した頃から彼の事をかわいがってくれた恩師だった。
そのため、木村が小笠原貿易のもう一つの顔の社員としても働いている事を知った時、圭介は軽くショックを受けた。なんだか長年騙されていた気分だった。しかし今はそんな事は言っていられない。これから木村の力を借りるのだ。
「大橋君。久しぶりだな。」
二年間なっていないだけでやたら老けこんだように見えた。白髪が目立つまで髪を侵食したせいだろう。
「どうも、ご無沙汰しております。」
「よし、じゃあついて来て。」
二人は社内の奥へと早めに歩き出した。時間が惜しいのが分かっていたのだろう。木村はよけいな世間話をするような素振りは見せなかった。
「大変だな、大橋君。」
「ええ。」
「頑張れよ。うちらもできる限りの協力をするからな。」
「どうも、ありがとうございます。」
拳銃、防弾チョッキ、会社の携帯電話など、様々な物を渡された。早急に準備を整えていたようだった。
戻る時も無駄な会話はなかった。会社を出て行く時だけ、木村が声をかけて来た。
「大橋。帰ってきたら駅前で一杯やるぞ。」
会釈をし、圭介は久しぶりの職場に行ってもゆっくりできない歯がゆさを噛み殺し、会社を後にした。絶対に生きて帰って来い、という木村の心の声を聞いた気がした。
埼京線に乗り、郊外の方に行く電車に揺られながら圭介は目の前を過ぎてゆく夜景をぼんやりと眺めた。次第に夜景のネオンは少なくなって行き、ついには自分の顔が窓ガラスに映るようになった。郊外になるにつれて、ネオンがなくなって行くからだ。
20分ほど電車に乗っていた。圭介はもう埼玉に近い場所まで来ていた。
改札口を出て圭介は一瞬立ち止まった。クラブSEIYAは一度も行った事がなかった。
駅前でタクシーを拾い、その名前を言ったら、運良く通じた。
圭介は腕時計に目を落とした。7時10分前。
「どれくらい掛かります?」
「ああ、近いですよ。5分ちょいで到着しますよ。」
ほっとし、圭介は乗りだしていた体を座席に戻した。
タクシーの運転手の言う通り、本当にすぐ着いた。小さな繁華街らしき狭い路地の前で車を止められた。
「ここから先は、歩行者天国ですので。クラブSEIYAはこの通りの右手にありますよ。」
圭介は礼を言い、料金を払った。
繁華街の路地に足を踏み入れた。こういうところに慣れていない圭介は、少し躊躇いを感じた。
クラブSEIYAは少し歩いたところにあった。店の前で立ち止まり、時計を見た。7時丁度になりかけている。深呼吸をし、体勢を整えた。
いざ、出陣。
~第十章~
クラブSEIYAはどうやらダンスクラブのような場所だった。店に入った途端、爆音が耳に飛び込んできた。大繁盛しているわけでもなさそうだったが、それでも客はいる方だろう。ディスコボールが店の中央で回っているのが見える。何人もの若者がその周りで群れを作り、流れるビートに合わせて乗っている。圭介はものすごく自分が場違いに思えた。
どうしたらいいのか分からなくなり、その場でたたずんでいるとクラブの若い従業員が声をかけて来た。圭介の真横にいたのに、今まで気付かなかった。ピアスを開け、髪を茶色に染めた男だ。大学生くらいだろう。彫が深く、やたら凛々しい顔つきだ。
「あのー、お店にはいられますか。」
「え、ああ。はい。」
少し迷ったが、入らないわけにはいかない。
「入場料1000円ですが。」
あたふたしながら財布を背広のポケットから出した時だった。
同じような格好をした従業員が奥から歩いて来た。しかし、違ったのが歳だ。明らかに中年のおじさん世代の男。圭介より少し年上だろう。
「タカシ君、その人を入れてあげてくれ。」
「あ、はい。今、料金を。」
「違う、払わなくていいんだよ。いいから入れて。」