恋するワルキューレ 第二部
「ちょっとー!! ジローラモみたいなイタリア人と一緒にしないで。わたしはサエコって言うの。氷室冴子。まあ、ウチの会社のジローラモならいくらでもあげるから持って帰りなさい。男なら誰でも良いんでしょ?」
「何よ!? あなた、わざわざそんな嫌味を言いに来たの?」
「そんな訳ないでしょ。偵察よ、あなたのね。あなたがどれだけ走れるか見るために来たの。
『ファランクス』のメンバーの実力はもう分かっているけど、あなたとは初めてのバトルだからね。一応、チェックに来たって訳」
「何よ、それってあのナンパイタリア人の差し金?」
「そうよ。ジローラモって、ああ見えても結構やる時はやるのよ。まあ、あなたがそんなに走れるとは思わないけど、一応念のためにね」
「わたしは、あなたみたいなオバサンじゃありませんから! そっちこそ途中で倒れないようにしてね!」
「ふーん、言ってくれるじゃない。まあ小娘がエロいジャージと可愛いバイクで男を誘ってもねえ……。まあ、頭の悪い男を引っ掛けるのがせいぜいでしょうね。
大人の女の知性と上品さって言うのはこうゆうものよ!」
そう言ってサエコは彼女の持つバイクを裕美に見せ付けた。
「イタリア製コルナゴ社の最も美しいバイク"Forever"よ!」
えっ、何? このバイク!?
サエコの前で声こそ出さなかったものの、裕美も内心、このバイクのデザインには正直驚かされた。
そのフレームは黒いカーボンブラックと水色をベースに、蝶や花、それに緑色の葉が色鮮やかに描かかれている。まるでエルメスやセリーヌのスカーフのように上品な絵柄でアーティスティックだ。しかもそのペイントはフレームだけでなく、ディープリムのホイールにまで描く徹底振り。まるでルネサンス絵画のようなその絵は、女性でなくとも――、男性でも、ロードバイク乗りでなくても、その華麗さに目を奪われるだろう。
「どう? 驚いたかしら? でも、それだけじゃないわよ。このジャージも見なさい!」
サエコはさりげなくポージングを決めて自分のジャージを見せ付けた。
そのジャージの背中には、薄く白いシルクのドレスを身にまとった黒髪の女性が耽美にそして優雅に描かれていた。そしてラテン語で"Cleopatra"と書かれたそのジャージ。
世界三大美女の一人、古代エジプト女王の『クレオパトラ』だ。
アレクサンダー大王の末裔でありギリシャ系の女性であるクレオパトラがエジプト風のドレスを身に纏い、西洋的でもあり、どこかオリエンタルな不思議な雰囲気を醸し出している。加えて黒を基調にしたジャージには、"Forever”と同じ鮮やかな蝶や花が丁寧なタッチで描かれている。
「どう、裕美さん?『ヴィットリオ・フェラガモ』の名前は伊達じゃないのよ」
そんな! このバイク、わたしの『デローサ』より……。
ヴィーナス・ジャージはともかく、サエコのバイク"Forever"の方が、裕美の『デローサ』よりデザインで上だと認めざるを得ない――。
バイクとジャージのコーディネイトでも完全に一歩先を行っている。
でも、自信の美に対するプライドもあるし、これから勝たなくてはならないレース。そんな弱気なことを言う訳にはいかない。
「ふーん、ペインティングは悪くないけど、ジャージもバイクも黒がベースなのは頂けないわ。少なくともロワ・ヴィトンじゃ、そんな黒いスカーフは扱ってませんから」
「ふーん、負け惜しみかしら? まあ良いわ。次は走りであなたを凹ませてあげるわ」
「フン、そっちこそ、私の走りを見て驚かないようにね!」
「スタート1分前!」
場内のアナウンスが流れる。
裕美もサエコもシューズをビンディングペダルに填めた。
ガチッ、ガチッと他の参加者達もシューズを次々にペダルに填めて走る準備を始める。
あとはスタートの合図を待つだけだ。
「スタート10秒前!」
F1のレースさながら、スターティング・ランプが光る!
「5、4、3、2、1、ゼロー! 富士チャレンジのスタートです!! 選手の皆さん、頑張って下さいー!」
つにレースが始まった――。
ただし、このレースはローリングスタート方式となっている。スタート直後の事故を防ぐためと、参加者があまりにも多いために採られた措置だ。選手達は一斉に飛び出す様なことはせず、先導車に従い先頭からゆっくりと走り始めた。
いよいよ、スタートね――。
裕美はローランのアドバイスを思い出していた。
『イイかい、まずはヒロミがスターターだ。ローリング・スタート方式で最初の一周は誰もスピードを出せないんダ。ヒロミは大集団の中でサーキットを走るのは初めてだから“リハーサル”には調度イイよ。急ぐ必要はナイ。回りを良く見て、まず集団走行に慣れることが大切サ。3周走ったら戻って来て。その後、アンリ、シャルル、ボクが走るから――』
まずは集団走行とコースに慣れることよね。
ローランの言う通り、この混雑では自由なライン取りはできないし、スピードを出すことも難しい。
でも――、
それじゃ、サエコ達に勝てないわ!
裕美はペダルを踏み込むと、集団の間の小さな隙間に潜り込み、また左右のスペースを使い、スピードのあるトレインに飛び込んでと、まるで魚が泳ぐ様にスルスルと集団をかわし前へ進んで行った。
「何よ、あの子? シロウトじゃなかったの?」
サエコは思わず声を上げた!
集団で走ることはそれなりの“慣れ”を必要とする。集団でトレインを形成して走る場合、前の人の背中が邪魔で、真正面が見えないまま走るのだ。
その様な状態で走るには、集団全体のスピードを把握する広い視野が必要になる。前方の僅かな隙間から常に2・3台先を見越し、さらに同時に左右の選手達の動きを見極めることで、初めて車間距離を10センチ程度まで縮め走ることが出来る様になるのだ。
相当の経験と技術による“余裕”がなくては出来ない技だ。
もちろん集団に付いて行く脚力も必要だし、ブレーキコントロールや安定したペダリング等の技術も必要になる。
何より集団走行に慣れているということは、チームから「キチンとした指導を受けている」証拠でもあるのだ。もちろん『指導』とは、集団走行の技術だけに留まらない。そのチームから、トレーニング方法、ライディング・テクニック、栄養補給、パーツのフィッティング等様々な面で自然の内に『指導』を受けることになる。
ロードバイクに乗ってはいるが、ヘルメットも被らず一人で走っているオジサンとは絶対的に、そして総合的な技術に違いが出る。集団走行の巧拙がロードバイクの実力・技術と比例すると言ってほぼ間違いない。
裕美は実業団チーム『ワルキューレ』や『ファランクス』との練習で集団走行にも十分に慣れている。この程度の集団密度なら全く問題にならない。
「ジローラモったら、早速もくろみが崩れているじゃない!」
どうやら只のシロウトではない――。
サエコも認識を改め、すぐさま裕美をマークすべく集団を上がって行く。
「あなた、結構走るじゃない? ロードバイクに乗りたてなんじゃなかったの?」
「あら? 言うのを忘れてたかしら? わたしこの前の“ツールド草津”じゃ表彰台にも立ったのよ。別にあなた達を騙すつもりじゃなかったんだけど、ごめんなさいね!」
作品名:恋するワルキューレ 第二部 作家名:ツクイ