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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~現世編~

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 振り返る仁木。そこにいたのは、春江に神仙鏡を奪わせた張本人である三田だった。
「貴様だな! 春江をそそのかしたのは?」
 春江が地獄に堕ちることになった悔しさを、晴らすかのように詰め寄った。
「人聞きが悪いねぇ。昔のよしみじゃないか。彼女が望んでやったことだ。もっと信用してくれよ」
 音もなく、スッと仁木に近付くと、甘美な笑みを浮かべながら、肩に手を置いた。仁木は即座にその手を振り払うと、三田の言葉を否定した。
「嘘だ!」
「嘘なものか。彼女の守護霊をしていてそんなことも気付かなかったのか? 仁木保護観察官?」
 仁木は、春江の保護観察官だった。春江を生前から知っていたとは、こういう事情によるものだった。
「…………」
 仁木はただ黙るしかなかった。
「君が守護していた春江君が自殺した。それを悔やんで自殺霊のふりして、春江君に接触。守護を解任されても、千回詣の説明義務を盾にしながら、自分が守護霊だということを明かさなければ問題ないと、さりげなく春江君を導く……法の穴をかいくぐるとは何ともあざといねぇ」
「黙れ!」
 三田が言っていることは図星だった。それだけに、感情が表に出たのであった。
「自分が守護する人間を自殺させた上に、罪を犯して地獄行きか? たいしたものだな」
 勝ち誇ったように笑みを浮かべる三田。自分の言葉に苦悩する仁木を喜びの表情で眺めていた。
「貴様のような堕天使がいるから無実の罪をかぶっていわれのない罰を受けなくてはならないのだ! どうして職務を放棄してこんなことをしているんだ三田結界官!」
 三田は元結界官であった。それ故に、千回詣や神仙鏡について詳しいのであった。
「お偉いさんのためにエネルギーを管理するのに嫌気がさしてねぇ。君のように神の犬になれないものでな」
「うるさい!」
 仁木は懐の刀を抜き、三田に斬りかかった。しかし、その刀は霞を斬るように三田の体を通り抜けた。それはホログラムのような残像だったのである。
「おーこわ。天使ともあろうお方が荒ぶっちゃって。君は阿呆か? 本体で来るわけないじゃないか。せいぜい自分の失態をうじうじ反省するんだな。天使お得意のやつだろ? 根暗だもんな。はははははっは!」
 と言い残すと、仁木の前から姿を消した。春江が罪を犯す原因になった三田に対する憎しみが爆発したのと同時に、守りきれなかった責任を強く感じていた。
 春江の顛末を三田のせいにするのは簡単である。しかし、それでは自分の犯した失敗を覆い隠すことになる。そう思いを巡らせながら、春江の方に意識を向けた。
 春江は相変わらず情熱的で温かい旋律で皆を魅了していたが、その体は燃え続けているため、見るも無惨な姿になっていた。
 おそらく体中に激痛が走っていることだろう。バイオリンを弾く余裕なんてあるはずもない。しかし、安定した動きで美しい音色を響かせていた。
 この場にいる者の中で、春江の姿が一番醜くなってしまった。しかし、誰も目を背けなかった。それどころか、愛の象徴として皆を包み込んだ。
 地獄に墜ちる寸前まで、皆を救おうとするその姿を、涙せずに見ることは誰も出来なかった。
 春江は、死んでから今までの激動の数年を、様々な人に出会い、成長していった大切な記憶を、全てを賭けて演奏した。
 仁木はその姿を見ながら、更に自分の犯した失敗を悔やんだ。春江は皆から菩薩と言われるような、慈悲深い人物だ。自殺者として留まるべきではない。なのに、春江は地獄に堕ちるのだ。
 自分の失敗で地獄に堕ちる。まさに三田の言う通りなのである。
 仁木は、膝を震わせながら地面に手をついた。その時、ふと首にあるジュネリングが目に映った。
――――春江が地獄に堕ちるのに、私だけがのうのうとできない……
 仁木はジュネリングを手に取り、壊そうとした。しかし、暫くして思いとどまった。
「私のためにお父様が墜ちてしまったら、私の心は死んでしまいます」
 という春江の言葉を思い出したためである。春江のために、地獄に行くわけにはいかない。そう決意を固めた仁木であった。
 春江の演奏は、いよいよ最高潮を迎えた。いつも通りの流れでいくと、そろそろ最後の曲である「シャコンヌ」になる。何度も聞いている異形なる者達や天使達は、春江の演奏も最後になることを予感していた。しかし、春江の体が燃え尽くすのも時間の問題であり、シャコンヌまで間に合わないかもしれなかった。
 最後の時が近付いている。誰もが予感していた。そのため、天使を含めた皆は涙を流しながら、訪れて欲しくないその瞬間を受け入れる覚悟をしていた。
 いよいよ「シャコンヌ」に入った。異形なる者達全員、浄化され、気品ある姿に変えた。春江を見送るのに相応しい格好をしようとしたのか、皆喪服に身を包んだ。
 数百人……いや数千人の異形なる者達が姿を変えた。天使からも見放され、どんな醜い姿になろうとも、誰からも気に留められなかった存在達。その故に、自分に危害が来ない限り、他者に無関心だった存在達。それらの存在が春江に救われ、春江のために涙した。
 人間達を卑下し、痛み付けることに躊躇しなかった天使たちが、自殺霊でかつ罪を犯した罪人を前にして跪いた。天使達が完全に春江を認めた瞬間だった。
 春江は「シャコンヌ」を演奏し終わり、演奏の構えを解くと、春江の演奏を聴いていた皆をゆっくりと見渡し、静かに涙を流した。
「私は……なんて幸せなんでしょう。私なんかのために……泣いていただけるなんて……お父様? お父様? いますよね? どこにいますか?」
 うなだれている仁木はふいに声をかけられ、一瞬反応が遅れたが、春江を見届ける最期の仕事だと思い、思うように動かない体を懸命に起こした。
「はい。何ですか?」
「お父様が私に声をかけてくださらなかったら、生きる希望をなくして、いじいじしていたと思います。お父様のお陰で、ここまで成長できました。ありがとうございました」
「何を言っているんですか……私のせいで……」
「それを言っては駄目ですよ」
 優しく諭す春江に、仁木はただ俯くしかなかった。
「それに皆さん……皆さんはいつも私を応援してくれました。いつも頼ってくれました……皆さんは、私に人を救う喜びを与えてくれました。本当にありがとうございました。」
 天使を含め、皆のすすり泣く声が激しく響いた。
「なのに……なのに……皆さんの期待を裏切ってしまいました……本当に申し訳ありません……でも……でも……天使様になるという夢はまだ諦めていません」
 え? と言わんばかりに、俯いていた全ての者が顔を上げ、春江を見つめた。
「私は地獄に行きます。でも……でも……絶対にはい上がってみせます。そして帰ってきます……待っててください。皆さんのために、絶対に帰ってきます! ベリー様と一緒に……」
 地獄に堕ちると待っているのはただ絶望だけである。地獄のことをよく知らない者でも、容易に至る結論である。なのに春江は、地獄に堕ちる直前にありながら夢を語った。皆体を震わせた。春江にとって、今は悲しみの瞬間ではないのである。新たな門出なのである。