天上万華鏡 ~現世編~
その瞬間、急に目の前に暗黒が広がり、何も見えなくなった。暫く呆然と立ちつくしていると、ようやく周りが明るくなった。目を凝らして辺りを見ると、そこは狛犬の前。1千回詣が終わって戻される場所であった。そこで先ほどの会話を思い出しながら、交渉に応じるべきがずっと考えていた。
春江は、放心状態で浜辺まで帰ってきた。三田の取引に応じるかどうか、一人ではなかなか判断できることではなかった。しかし、相談できる相手がいない。この事が、更に春江を苦しめた。
心ここにあらず。そんな表情を読み取った仁木は心配になり、事情を聞き出そうとした。
「春江……どうしたんですか? 元気がないですよ」
「……いえ……ちょっと疲れてしまって……休みますね」
仁木は、はっとしてしまった。春江は何か隠している。これまで春江は仁木に隠し事をしたことがなかった。だから、仁木はいつもと違うこの反応に戸惑った。
何かあったに違いない。自分にも言えない何かを抱えている。仁木は、これまで順調に事が進んでいるだけに、足元をすくわれないようにしなければならないと思っていた。春江の様子は、その不安を深めるものだった。
しかし、今は何もできない。とりあえず様子を見守り、最悪の事態を回避するしかないという結論に至った。
春江は、床に就くためにいつもの場所に向かったが、どうしても、三田との交渉の事が頭から離れなかった。鏡を持ち帰ることもそうだが、三田の言った通り、天使は本当にエネルギーを独り占めしているのか。天使に対する信仰心は衰えないものの、三田の言ったことが事実かどうかで、春江の判断は大きく変わろうとしていた。
そこで苦悩した春江は、事の全貌を明かすことはできないが、やはり仁木から情報収集するしかないと思った。
「お父様……千回詣のあの神社……」
「はい」
「エネルギーが集まっている場所なんですよね?」
「はいそうです。地脈というエネルギーが集まる場所です」
仁木は、この問いの意図が分からなかったが、春江の変化に関係のあることだろうと思い、できるだけ話を聞き出そうとした。
「天使様が、エネルギーを管理されているんですよね?」
「そうです。それが天使の仕事ですからね。結界官の仕事になりますね」
「そのエネルギーは何に使われるんですか?」
「う〜ん。様々な使われ方がされますが、主にヤコブの梯子の運営。天使たちが登場する時に消費されるエネルギー……あとは、天使同士の情報交換などでしょうかね……」
「え? それじゃ、私たちのためには……」
「私たちは罪人なんですよ? 使われるわけないじゃないですか」
「でも、未練があって残っている方も多くいらっしゃるじゃないですか」
「そうですね。でも死んだらすぐに天界に帰還するようになっています。必要なエネルギーは天界で貰うようになっているんです。だから現世では用意されていません」
「でも……成仏出来ない事情があるんだから、考えてもらってもいいじゃないですか……」
「まあそうですけどね……少しでも無駄遣いをしたくないんでしょうね」
「そんな……やっぱり……」
三田の言ったことは正しかったのだ。そう言いかけて口を閉じた。自殺者は罪人だ。成仏しない霊は本来いるべき場所にいないのが悪いのだ。だからエネルギーは恩恵を受ける事ができない。理屈では分かる。でも、あまりにも無慈悲ではないかと思った。
「無慈悲だって言いたいんでしょ?」
「……はい……」
「私もそう思います。天使は無慈悲だ……みんなそう思っている。でもどうにもならないんですよ」
「…………」
「でも春江ならどうにかしてくれる。みんなそう思っているんですよ」
仁木はにっこり微笑んだ。
「だって、氷の仮面を被っていた天使たちが、春江の光でどれだけ変わったか……春江が一番分かっているでしょ?」
「……そうですね……」
「だから、早く天使になって、世界を変えてくださいね」
「世界を?」
「はい。天使だとか、自殺者とか、そういう地位や立場を超えて、皆が笑顔になれる世界にね」
「皆が……」
春江の悩みは、エネルギー分配による理不尽さに気付いたからだと仁木は直感した。しかし、今の春江ではどうにもできないことである。馬鹿な行動に走る心配がないと思い、安堵した。むしろ、これを天使になりたいという気持ちに繋げることができると思った。
しかし、この仁木の読みは明らかに外れていた。エネルギーがきちんと分配されていない事実は、春江にとって三田の交渉に応じる大きな要因になったのである。
更に、仁木の言葉である。皆を笑顔にするのであったら、管に繋がれ、生命力を吸い取られるだけでなく、吸い付くされたらゴミのように捨てられるあの霊たちを笑顔にしなければならない。
千回詣を経て、天使になることばかり考えていた自分が恥ずかしくなった。いくら人を救うためとはいえ、夢をもって前に進むことができた自分は幸せだった。しかし一方では、夢をもつことすら許されず、エネルギーを摂取されるだけの存在として扱われる者もいる。菩薩と崇められて、そこに安住していた自分は一体何なのだ……
もしかしたら、仁木たちの期待を大きく裏切ることになるかもしれない。しかし、これが自分の生きる道なのだ。他人の犠牲のもとに自分の幸せはない。そう心の中で唱えた春江は覚悟を決めた。
――――もう少し我慢してくださいね。私が絶対助けますから……
自殺したあの時と同じく、心は何故か澄み渡っていた。
作品名:天上万華鏡 ~現世編~ 作家名:仁科 カンヂ