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郊外物語

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信州飯田市はすでに雪に埋もれていた。夏の間賑わった天竜川の川下りも、まさか冬に試みる人間はいない。中央アルプスと南アルプスに両手のひらで掬うようにからめとられ、雪を詰め込まれたとあっては、逃げようがない。ここを愛し、ここに終の棲家を定めた人たちも、さすがに冬はただ鬱々と内にこもるしか手のうちようがない。もっとも、これが好きでここに住んでいるという酔狂な人たちも少なくないだろう。酔狂人は今だけでなく昔もいたわけで、その筆頭が、なに不自由なく暮していた京都を捨てて、滋賀に入り、琵琶湖を廻って岐阜を抜け、いくつもの峠を越えてこの地に胡坐をかいた高森家の人々だった。京都固有の水引の技術を飯田に伝えたのがこの高森家だ。代々のひとびとが、土地の森林を鑑定し、製紙技術を樹種にあわせて改良してきたおかげで、飯田市は製紙業では全国屈指の生産量と高品質を誇る。全国の水引の八割は飯田で生産されている。当主の高森專衛門は、六十代半ばにあり、いまだに精力旺盛で、多くの事業の采配を振るっている。飯田の水引組合の会長であるということは、全国の水引組合の総会長であることを意味する。專衛門はまた考古学者であり、歴史家であり、ローカルな知識人でもある。その專衛門が、この冬、深い悩みを悩んでいた。彼は、飯田市の北東、天竜川の右岸の屋敷で深夜炬燵にあたりながらうめいていた。一人娘の玲子が原因だった。何度も親子の断絶劇を繰り返しながら眼に入れても痛くないほどかわいい娘が、またもやしでかしてくれた。しかも、深刻極まりないことをしでかした。專衛門は、受け取ったメールをプリントアウトして、この三時間でいったい何度読んだことだろう。束ねて綴じた紙束の上側何枚かは癖毛のように巻き上がってもとに戻らない。ちゃんちゃんこを羽織った專衛門は、しんと静かな屋敷の、一番奥の六畳間で、再び娘の玲子の手紙を読み返す。返事は一回読んだ後にすぐに出した。明日の夕方に玲子は飯田に帰ってくる……
作品名:郊外物語 作家名:安西光彦