郊外物語
真紗子は食べ物を取りにキッチンに向かった。トイレから出てきた玲子とすれ違った。スリッパのすべりがよくなかったのか、躓き加減になって、真砂子に寄りかかるようになった。右の乳の上を額が軽く突いた。真砂子には、玲子の頭のつむじが見えた。いまさらながら玲子がいかに小柄かがわかった。玲子は、すぐに真紗子の右の上腕を両手でつかみ、上目使いで覗いながら、ごめんね、と息の音だけで言った。真砂子は、この躓きが、ホンモノかどうか、疑った。額がいやに的確に乳房に当たったからだ。何かの合図かもしれなかった。テレビドラマの内容について、あんまり批判しないでね、恥ずかしがってんの、わかるでしょ、だったのか? そんな甘えを真砂子は嫌う。あるいは、この部屋のスリッパを履きなれてはいないと真砂子に見せつけておきたかったのかもしれなかった。真砂子がいないときに玲子はここに何回来たのだろう……
真砂子は、小声で、あらっ、とつぶやいて、我にかえった。玲子はとっくにいない。あわてて一歩を踏み出そうとしたが、キッチンに向かっていたのかリビングに向かっていたのか、一瞬思い出せない。すれ違った玲子の向きを思い出して、その逆を選ぶ始末だった。放心のあまり現実から遊離してしまうことが、真砂子にはよくある。
キッチンは十畳ほどの広さだ。冷蔵庫、オーブン、レンジ、どれも営業用の、がっちりした備品で、ステンレスの表面が蛍光灯に輝いていた。ワインクーラーとビール類のクーラーが別個にあった。ガス台はない。シンクの右側に電子調理台があるだけだ。シンクの左側にも調理台があり、正面に、十本を越える包丁と、三枚のまな板が斜めにさしてある。左の壁側に、大型の食器洗い機がある。シンクも、その左右の調理台もステンレス製で、汚れひとつついていない。シンクの真上には、天井から、鍋や釜がつるしてある。ほとんどが外国製だ。シンクに向かって背中側には、皿、茶碗、グラスを収めた、幅の広い棚が置かれている。普段、家族四人が使う食器の数は高が知れているが、たくさんの客に備えて、棚の中は充実していた。左側の調理台とグラス専用の棚の間に、四人座るといっぱいの食事テーブルがある。壁も天井も黄色に近いクリーム色だ。床には若草色のじゅうたんが敷きつめてある。