郊外物語
真砂子はベッドから降りて床に立った。浮世絵全集には、なるべく眼をやらないようにした。ひどい二日酔いで、風邪もひいていた。義人はテニスから、子供たちは世田谷から、夕方になるまで帰ってこないので、それまでごろごろしていてもいいのだが、真砂子はそれを自分に許さない。
人間のだめなところは、放っておくと猛烈な勢いで繁殖する。カビや菌類のような下等植物と同じだ。それにひきかえ、人間の抱く理念は、輝く結晶のような昇華物であって、生き物ではない。壊れないように愛蔵すべき美しくもろいものだ。たくさんのだめを抱えた人間が、理念にどれだけ近づけるか、どのくらい一体化できるか、その実験と実践の過程が人生だ。小さな見逃しが、蟻の一穴、じわじわ拡がっていって、大河の決壊をもたらすのだ。
今日は意外にもこんなによく晴れ渡った。洗濯日和だ。二日酔いや少々の風邪引きを言い訳にしてはいけない。真砂子はいい奥さんでいい母親であるはずだった。ただの、いい、どころではないとひそかに自分では信じていた。
洗濯からはじめた。脱衣室と洗濯場がいっしょになっている。奥に、引き戸を隔ててバスタブとシャワー。鏡の左側の壁に、棚と引き出しが天井近くまで積み重なっている。腰の位置にある棚に、十本近い歯ブラシが、大小のカップに入って並んでいる。右の手前に、電動歯ブラシが三本立っている。子供用の電動でないブラシには、短くて白い柄に、いちごの模様や空を飛ぶ像の絵が描かれている。義人は、歯磨きの達人になるまでは、電動歯ブラシは使わせないと宣言しているが、子供たちはこっそり毎日使っている。ブラウンの製品よりいいのが出た出ないで義人と言い争ったのが一年前。新庄夫婦が移転してきたころだったのでよく憶えている。三本のうちの一本はその時買った、ブラウンじゃないやつだった。なんていうのだっけ。フィリップ? ファーマーズ? それとも日本製だったかな? なんだか近頃記憶力が急に衰えてきた。見れば分かるでしょ。ああ、霞がかかってる、老眼かしら。眼をしばたいてから注目する。日本製だ。残りのたくさんの歯ブラシをぼんやり眺め、ほんの少し視点を移動させて、鏡の中の土気色の顔を見て、また歯ブラシへ戻る。それを右へ左へ無意味に繰り返していると、不意に吐き気に襲われて、シンクに吐いた。胃液しか出なかった。