郊外物語
真砂子は軽く頬を右手で叩いて気合を入れた。義人と玲子が、たとえ何をしていても、自分の確立した生活環境と人生状況が、それをたわいなくしてしまうはずだと思った。とにかく自分たち夫婦の結びつきの強さが厳然としてある。
それを証拠付ける事実にはこと欠かなかった。義人は、女手ひとつで自分を育て上げ、父親と同じ医者に仕立ててくれた母親よりも、同じ状況で切磋琢磨してきた弟よりも、真砂子をとった。ててなしごの身の上を問題にしなかった。先妻の子たちの母親になってくれと土下座した。
十年前の義人は憐れないじめられっこだった。鍛えてやったのはこの私だ、と真砂子は心の中で小さな声で叫んだ。真砂子は二十七歳ですでに婦長代理だった。真砂子と同じ歳の、研修を終わったばかりの東大医学部出が来るというので、看護婦たちは色めきたったものだった。真砂子の勤める病院が、大枚をはたいてアメリカからヘッドハンティングしてきた相良外科部長の元で、外科専門医の指導を受けにくるという。
奇妙な噂がたちまち広まった。研修中の手術の際に、マジックで、患者の腹に、予定の切り口を描いてからメスでなぞったと聞いた。本当だろうか。真砂子はその研修終了医が、回診のときに、集団の尻にくっついてきたのを見逃さなかった。ひょろりと背の高い、空からつい今しがた降ってきたような、リアリティの欠如した風采だった。いかにも頼りなさそうな若者だった。さすがに眼は鋭く、馬鹿でないのははっきりしていたが、漂う浮遊性は生来のものか。最初に現場で立ち会ったのは、単純な胆のう摘出手術のときだった。義人の手が震えていた。真砂子は、その手をひっぱたいた。見学者がたくさんいたので、手術室に、低いうめき声がこだました。その日の晩に義人と寝た。酔った義人を肩に担いで連れ込んで強チンしたのだ。生涯最高のゴールだったと思っている。何月ごろだったっけ? どこでだっけ?