郊外物語
被害者は今月の十四日に同じマンションから転落して死亡した女性の夫だった。十日も経ずに残った夫が殺害されたということで、被害者の妻の死が本当に事故であったかどうかはなはだ疑わしくなった。同一犯人の犯行である可能性が出てきたからだ。事故死と断定した警察の発表を覆すことは重大な責任問題を生じさせるが、せめて世間が先に警察に不信感を抱く前に、あらためて遡及捜査をして早く結果を示さねばならなかった。今夜袋田が一課長から急遽出向を命じられたのは、十四日の事件を事故とする決定に異議を唱えた少数者のうちの一人だったからだ。ほとんどの者は事故死説をとったが、その根拠は、自殺他殺の理由がないからという消極的なものだった。死亡した女性は、帰省を予定しており、掃除の途中であり、クリスマスの飾り付けに忙しかった。自殺しようとする者のふるまいではない。一方、近所での評判は極めて良く、友人や仕事関係者も彼女の人柄を絶賛していた。有名なおしどり夫婦でもあり、夫婦になるまでのいきさつはドラマとなって人気を呼んだ。他殺の理由も全くなかった。当日は強風が吹いていたので、取り付けネジのやや甘くなった椅子の上で背伸びした時たまたま風に煽られてバランスを崩したのは大いにありうることだった。しかし袋田には気になることがあった。その女性は掃除機のパイプの先を、しかも座頭市のように逆手に握っていたのだった。この疑問には一応の説明がつけられた。女性は床を清掃してはいなかった。椅子にのっていたのだからおそらくベランダの天井の煤をとっていたのだろう。短く持って汚れを掻き取っていたのだ。逆手に持っていたのは、転落の際にとっさに持ち替えたのだ。なぜなら壊れたクリーナーから分かるように、クリーナー本体が段差にひっかかって一瞬転落が止まったので、ロープにぶら下がるように逆向きにしがみついたのだ。ところが途中からもげてしまったのだ。袋田は不服だった。人間は動転すると筋肉が硬直し、たとえば手の握力を緩めてからまた握るなどという芸当はとても出来ない。しかし、そうとは言いきれない、でお開きになった。
袋田は助手席のドアを開けた。一緒に降りようとする新宿署の巡査部長に向かって、ここまでで結構、お疲れ様でした、署長によろしくお伝えください、と伝えた。相手は、それでは、とだけ言って敬礼した。



