郊外物語
真砂子は、座席の表面に尻を滑らせながら、左手で右前方の虚空に向かって指をさし、大きな声で、「あっ、うさぎ!」と叫んだ。同時に右手でシートベルトの留め金をはずした。一度ハンドルに戻った達郎の左手が、今度はすばやく真砂子のコートをつかもうとしたが、その時はもう真砂子はドアを開けていた。達郎の手はシートを引っかいた。真砂子はさらにあとずさりして尻から車の外へ転げ落ちた。仰向けに転落しながら、またこの姿勢をとったか、と錯覚した。前に手をつくのはなんでもないが、後ろに倒れこむ場合はどれほど不安に襲われるかがよく分かった。
体が完全に宙に浮いた。うろたえた。どうしたらいいのかわからない。手足をばたつかせてもがいた。胃と肺がざわめいた。
もんどりうって肩甲骨から落ちた。後頭部を地面に打ちつけた。顔が雪の中に埋まり、雪の筒の底から相変わらず汚い空を見ることになった。脚と腰が舞い上がり、体の上で弧を描いて視野をふさいだ。背骨が音を立てて曲がりきり、うなじで逆立ちし、体が一回転してうつ伏せになった。腐食土の匂いがした。
真砂子は跳び起きると土手の斜面を川と平行に下流へ向かって走り始めた。道路に上がると車で追いつかれるが、土手を走る限り、達郎は車から降りなければ真砂子を捕まえられない。足に自信のある真砂子はそうした方が逃げ切れる可能性が高いと期待した。しかし、真砂子はたちまち転倒した。立ち上がって走り始めたがまた転倒した。雪の覆いの下には悪意に満ちみちたごろた石や穴ぼこや熊笹の茎が隠れていた。何度目かの転倒の拍子についた右手が鋭く痛んだ。手の甲から、斜めに伐られた竹の茎がつき出ていた。引き抜くときにはさらに激しい痛みを感じた。土手を走るのは無理だと諦め、真砂子は川に向かった。雪の上に点々と血の痕がついた。途中に、石の仏塔が立っていた。灰色に変色した木の卒塔婆も二三本立っていた。振り返ると、車は小刻みに前後の移動を繰り返し、ターンを試みていた。真砂子は跳びながら駆け降りた。今度はしりもちをついた。



