郊外物語
台所にやってきた。昨晩は、達郎の主催で、手伝いの奥さん方をメインゲストに、慰労会が催されたが、真砂子は出席しなかった。夕方に帰ってくると、風呂にはいってすぐにベッドの上に倒れてしまった。以来十数時間、悪夢と格闘してきた。さすがに腹ペコだった。スパゲッティを作り始めた。
キッチンテーブルでスパゲッティをたらふく食べたあと、だらしなくリビングのソファに寝そべった。ベランダに面した窓がときどき風に押されてずれる音が聞こえる。ベランダの天井に渡した洗濯紐が揺れていた。紐に手を伸ばすのに、真砂子は椅子や脚立を必要としない。さすがに天井には手がとどかない。しかし別に天井にまで手をとどかせる必要はない。……ぎくりとして顔をテレビのモニターに向けた。暗い画面には部屋全体が凝縮して映っていた。これで何度あれを見たことか……。顔をそむけた。余計なことを思い出さないように目をつぶっていることにしよう……
その時、携帯の着信音が寝室から聞こえてきた。ふてくされたように立ち上がって、寝室に入ると床にじかに坐り、両足を伸ばした。かかとの延長線をたどってしまう。例の写真の挟まった歌川国芳の卷が見えた。サイドテーブルの上に投げ出されていたバッグをひったくった。左側の上半身をベッドに寄りかからせながら、携帯を右耳に当てた。
「もしもし、おはようございます。新庄です。お疲れ様でした。まったくもう、真砂子さんには、なんとお礼申し上げていいやら」
酒とタバコと、おそらくは疲労で、ノイズに近い達郎の声が聞こえた。玲子の部屋にあの時いたはずだ、と切り出されると真砂子は思い、自分から口を開いて時間を稼ぐことにした。
「私としては、当然のことをしたまでですから。達郎さん、遠慮しないでもっと私をこき使ってくれて、よかったんですよ」
「いやいや、そんなかわいそうなこと出来ませんでしたよ。皆さん、真砂子さんのことを褒めてましたよ」
真砂子は、かわいそうな、の一言に、危うく失笑しそうになった。すぐに警戒態勢に戻る。
「もうすぐ十二時ですね。昼飯でも一緒にいかがですか」
「今いただいたばかりなんです」
「じゃ、コーヒーでも飲みませんか。お話したいこともありますし」
さあ、来たな、と真砂子は覚悟を新たにした。計画通りに対応して、その場で決して予定を変更しないことを心に確かめた。



