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郊外物語

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「玲子さんは、水曜の昼に、実家に向かう予定だったそうだ。衝動的に身を投げたということもありうるけれど、あんなに理性的な人だったからね、まず考えられないな。ベランダの天井のすすをクリーナーでとろうとしていたらしい。突風のせいか、クリーナーの本体が段差に引っかかったせいか、とにかくバランスを崩したらしい。よく貧血を起こしていたそうだから、めまいがしたのかもしれない」
義人は、正面を向いてしゃべった。それから真砂子を見据えた。義人は、他人の目をめったに見ない。真砂子の目すら見ることは珍しい。酔ったときは例外だった。今義人の目は、半眼に、斜め上から真砂子を見下ろしていた。切れ長のきつく鋭い目だ。
義人の目に見つめられると、隠し事をするのが難しくなる。レントゲンを浴びているような気がするのだ。じゃあ、他殺の線はまったくなかったのね、達郎さんは私のことを何も言ってなかったのね、などということを正直に口に出してしまいたい誘惑に駆られた。もちろんそんなことを押しとどめられないほど愚かではなかった。ただ、「バランスを崩したか、めまいがしたか…… ふうん、私も気をつけなくっちゃ」とつぶやいただけだった。
義人は立ち上がると、棚に近寄った。まさか浮世絵を見るのではあるまいな、と真砂子はひやりとした。義人はCDをかける。バッハの平均率クラヴィーア集だ。真砂子はこの曲集を何度聴かされたことか。
ある道具を集中的に見続けると、本来のその用途以外のものが道具性を圧倒しはじめ、得体のしれないものが氾濫してくる、という経験を真砂子はときどき持つ。道具だけではなく、無数の道具の寄り合い所帯である生物についても、もちろん人間についても、そうであることがある。音楽も例外ではない。何度も聴いていると、一々の音の役割、他の音たちとの関係を、音が突き破って、音そのものが立ち現れてくることがある。バッハのこの曲に対して、真砂子はその段階の聴き方しかできなくなっていた。バッハの意図した統制を逸脱した音たちしかもう聴こえなくなっていた。このような事情が、理想の家族共同体にも当てはまるとしたら恐ろしいことだった。真砂子は、この共同体を心眼で見続けてきた。だが、見すぎて得体のしれないものが出てきたり、解体に陥ったりするのは、真っ平ごめんこうむる。あれらとこれとは話が別であってほしい……
作品名:郊外物語 作家名:安西光彦