郊外物語
いけない、こうしてはいられない、出勤しなくては。何時だ? 振り向くと、リビングの時計は、証人が証言するように、十時二十分を指している。真砂子は、首を左右に振る。馬鹿め、違う、違う。出勤じゃない、逃げなくては。ああ、違う、あくまで病院に行くんだ、普段どおり病院に行くことが最善の逃げ方なんだ。しかし足が動くだろうか? 恐る恐る後ずさりしてみる。段差のところで危うく尻餅をつきそうになり、ぞっとする。プラスティックのカバーの下半分が砕けた掃除機が、それでもモーターの音を立てている。壁のコンセントからコードを引き抜こうとして再びぞっとする。地面の上で死んでいるはずの人間が、コードを引き抜くか? いけない、生理がはじまった。なんでこんなときに。このままドアの外には出られない。廊下に垂れる。掃除機のパイプをベランダに放り出すと、小走りにトイレに走った。洗面台の上の、鏡の張ってある棚を開けて、玲子の生理用品を取り出した。ちくしょうめ。私と同じロリエじゃないか。ふるえる手でやっと外皮のセロファンを破ってゴミ箱に捨て、その場で乱暴に股間に押し込んだ。まだゴム手袋をはめたままだった。作業の順番が逆だ、と自分をののしりながら外そうとした。なかなか外れない。玲子の両手が放してなるものかとつかんでいるように感じて鳥肌が立つ。やっと外れたが、さて、と考える。手袋の内側には、真砂子の指紋や掌紋がついているはずだった。置いては行けない。真砂子はリビングに走って戻るとバッグに手袋を突っ込む。急がねばならない。さっきから何秒たったのか。九時過ぎにはほとんど無人となるマンションだったが、落下の音から人は不審がって下に集まってくるだろう。玲子とわかれば、すぐこの部屋に人が来る。真砂子はバッグを胸に抱えてそっと細めにドアを開ける。ドアに左の頬をくっつけて左目だけで廊下を見渡す。誰もいない。聞き耳を立てる。何の音もしない。気合で廊下の反対側を、首を突き出して見る。誰もいない。今だ! 真砂子はロックのつまみを押しておいてドアを締めた。エレベーターへと跳ぶように急いだ。



