郊外物語
ダッシュした。ベランダに跳びあがった。玲子の尻に掃除機を突き出した。段差に掃除機のモーターが激突して大きな音を立てた。玲子の両足が浮いた。玲子は、腕を大車輪のように回しながら、体をねじって反転した。右手につかんでいたテープが切れた。左手で掃除機のパイプの先をつかんだ。真砂子は強く前へ引っ張られ、恐慌状態となった。死なばもろともか? 掃除機のパイプが途中からもげた。玲子は腹筋運動をするように体をくの字に曲げた。両脚の足首が揃って、アキレス腱のところで手摺りに引っかかっている。尻餅をつく形になった。しかし、尻の下には何もなかった。二メートルにも満たない距離を隔てて玲子は真砂子をまじまじと見た。飛び出るほどに目をむき、真砂子を睨みつけた。驚愕と不可解でその目は破裂しそうだった。今にも起き上がってきそうに見えた玲子の体がゆっくりと下降し始めた。手摺りにパイプがたたきつけられて砕け散った。三つ編みが頭の後ろに躍り上がる。玲子は大きく口を開いた。顎が外れた。のどチンコが見える。のどが詰まって声が出ない。ふと姿が消える。二秒後、交通事故の際、車どうしが衝突するような音と、何かが割れる、べチャ、という音が、遠くから同時に聞こえた。
掃除機をつきだしたまま体中で息をしている真砂子は、歯をむき出しにしているので、口の周りのしわに沿って厚い化粧が剥げ落ちて、今や本性をあらわにした獣そのものだった。
真砂子は分厚い時間と空間を一気に通り抜けて我に還った。ふだんの自分を忘れて、遠いところに旅に出ていたところを、急に呼び戻されて、今慌ただしく家に帰ってきたような気がした。実際島根県の出雲まで行って帰ってきたところなのではないか?
数秒前の自分と今の自分と、どちらが本物なのかわからなかった。それは大変難しい判定であるように思えた。手におえない問題だった。その時その時の自分が、本物の自分であるとみなしていくより仕方がない。今はどういう時か、今何をすべきか?
寒風吹きすさぶベランダにいるのは真砂子ひとりだ。玲子がいない。自分ひとりしかここにいない。なにが起きたかがよくわかる。寒さと恐怖で、真砂子は震えあがった。下を見る勇気がない。



