郊外物語
私達のところに彼らが群れなしてやってきて、酒宴になったことが何度もありました。達郎はむしろそれを面白がっていました。あるとき私も不用意に酔っ払ってしまって、コーヒーをどうぞ、という時に、カフィ、と言ってしまいました。そうしたら彼らは色めきたって、ほう、朝鮮人じゃったとか、と言います。韓国語では、コーヒーをコピィと言いますから。私は歴史を意識はしますが特別な差別意識はありません。ところが彼らの差別意識は甚だしく、あっという間に私達は、朝鮮人夫婦、ということになって、ぞんざいに扱われるようになりました。舌打ちをされ、命令され、顎で使われました。最初に、いつでもいいですよ、と言ってしまっていたので、貸したものやお金は返してくれませんでした。
これら諸々、新鮮で貴重な経験とさえもいえますけどね。
私は、庶民が、こんなにも卑しくて汚らしいイキモノだとは夢にも知りませんでした。庶民とは、もっと庶民的なものだと思っていました。庶民の、義理と人情とか、したたかさとか、助け合い精神とか、貧しいながらも忘れない明るさと希望とか、反権力感情や批判精神とか、ユーモアや諧謔とか、私の抱いていたイメージはなんとナイーヴだったことでしょうか。現実とはなんと非現実的だったことでしょうか。心温まる、人を武装解除してしまうような庶民のイメージがポピュラーであることで、利益を得るのは庶民自身ですから、私は、庶民がそれこそしたたかに自己宣伝をした結果を、私が丸呑みにしていたのか、とつくづく反省しました。庶民を神聖化する庶民でない人たちも、そうすることで自分達の立場を温存していた疑いがあります。こんなお手盛りの虚構にだまされていたとは、私もやっぱりまだガキでしたね。



