月下行
その魂を陥落させるように、魔物は甘く囁く。
「意地を張らずに言えば良い。私のモノになると、一言だけ。そうすれば楽になれ
る。もう苦しまなくて良いんだ」
ヒュッと喉を鳴らして息を吸うと、花耶は叫んだ。
「ならないっ!!お前のモノになんか、絶対にならない!!死んでもっ!!」
「ふうん。諦めが悪いな。やはり……」
「悪くて悪い?!ええ、そうよ!お前の言う通り、あたしは誰より先に逃げ出して
しまった卑怯者よ!それで自分だけ助かった。だからっ」
細められた魔物の目が剣呑な光を宿す。威圧感を増すそれを、花耶は一歩も引かず
正面から受け止める。
「あたしは止めない。諦めない。お前から逃げ続けてみせる!絶対に負けない!」
「では、続行だな?」
強い意志を込めて、花耶がしっかりと頷く。
「わかった。だったら、せいぜい楽しませてくれ。今度こそ、な。期待してるぞ」
如何にも余裕のある態度で軽口を叩く。表情を強張らせた相手へと、魔物は顔を
寄せた。
「ずっと何もない、つまらない日々だった。けれどお前なら、この退屈を癒して
くれるか?」
「知らない。退屈でも何でも勝手にしてなさい。あたしは、お前の思い通りに
なんか絶対ならない」
「────上等」
魔物は愉快そうに笑った。ほとんど声も立てず、密やかで独特の笑い方。
憎々しいと感じるのに、何故かその顔から目が離せない。不意に距離が迫った。
「なっ?!何するっ?!」
掠めるように触れた唇。思わぬ行為に鼓動が跳ね上がる。動揺し、困惑する。
「再会の挨拶代わりだ。浄化も兼ねてね。お前は本当に同族に好かれるらしい。
随分と他の奴らの手垢がついてて、不愉快だ。一応、キレーにしといたけど。
これに関しては礼を言われても良いんじゃないか?」
「は?手垢?何よ、それ?訳わかんない事を言って?!」
「では、またな」
現れた時と同じ唐突さで。その姿が掻き消された。
「────っ!?」
天も地も無い、巨大な白い空白のような空間になっていた。気付くと同時に、
足元の支えを失って、急降下で身体が落下していく。
果ての無い失墜感の中で、花耶は自失した。
◇◇◇
「おいっ?しっかりしろ、桜庭っ!?」
珍しいな、と思った。幼い頃から聞き慣れたその声は、どんな時も取り乱す
事なんてなかったから。
こいつでも、こんな慌てる事あるんだ……呑気に感慨にふけってると、鋭い
衝撃が頭を直撃した。
「戻って来い!花耶っ!!」
「いったっ?!何するのよっ?!」
「桜庭?」
「あ……あたし……久宝寺?」
「やっと戻ったか……」
殴られた衝撃で目が覚めた。途端に、久宝寺は目に見えて安堵の表情を浮か
べ、肩の力を抜いた。
「あたしは────?」
どうしたんだろう、と言いかけて花耶は止めた。
そうだった。部活の、自主練習の帰りだった。試合が近いせいもあって、朝
からハードな練習をこなして……けれど学校側の都合だとかで早々に追い出
されて、渋々ながら帰路について、その道中で意識を失い始めた。
「何で、あんたがここにいるの?」
確か、駅に向かう道の途中だった気がする。なのに周りを見渡せば、今いる
そこは公園のようだった。
小さな児童公園。通学路の途中に、そんな物があったようにも記憶する。
そして目の前には何故か、腐れ縁の幼馴染みである久宝寺 遥。
ベンチに腰かけた自分を跪いた格好で見上げている。
「あんた、自転車通学でしょ?何?あたしに何か用でもあるの?」
素っ気ない態度は羞恥心からの照れ隠しだ。校内に私設のファンクラブまで
出来るほど、久宝寺は人気がある。女子に絶大な支持を受ける理由は、精緻
に整ったその秀麗な容貌ゆえだ。長身で一年生ながらもバスケ部のエースで、
とくれば異性にモテない筈がない。寡黙で無愛想なのも逆に魅力、らしい。
「お前の様子が変だったから、後を追った。途中でマジにおかしくなったから、
どうにかここへ連れてきた」
黒っぽいジャージの膝に付着した砂を軽く払って、立ち上がる。
「目は虚ろ、何度呼んでも答えない。体温まで下がってきた。冗談抜きでヤバ
そうで、本気で焦った」
「め、面倒見てくれなんて頼んじゃいないわよっ」
見詰めてくる久宝寺の視線が、酷く居心地が悪い。そんな臆面も無く『心配
した』のだと、言葉で態度で示さないで欲しい。そんなのは、らしくない。
ルール違反だ。だから、花耶は軽く笑い飛ばした。
「あたしに恩を売ろうなんて、百万年早いわ。小さい時は、いつだってあたし
の後を半ベソかいてついて来てた癖に」
「ガキの頃の話だ。今は違う」
つけつけとした花耶の言動に、久宝寺は苦笑を浮かべる。
「それより答えろ。お前、何があった?」
黙りこむ花耶に、久宝寺は深い溜息を漏らした。
「答えにくいなら、質問を変える。何を見た?」
「久宝寺……あんた?」
「何もかも、わかってる訳じゃない。だから、教えろ。お前は何を見た?
何処にいた?誰に逢った?」
淡々とした静かな口調だった。けれど誤魔化しを許さない強さがあった。
花耶は心を決めた。
「昔の夢よ。遠い、遠い、昔の夢。遠過ぎて、忘れてしまってた夢。忘れて
はいけない夢、なのに」
「昔の夢?それは前世でって事か?誰かと、何か約束でもしたのか?」
奇妙なぐらい、正確に理解している。花耶は驚きの表情を隠せず、久宝寺
を見詰めた。
「相手は魔の者か?お前を、奪うとでも?」
「あんた?何で?」
「どうでも良いだろ。単なる勘だ。けど……畜生っ」
久宝寺が怒りも露わに立ち上がる。
「ちょ、ちょっと?!久宝寺、何っ?!」
「誰が渡すかよ。相手が何であろうと絶対にっ!」
抗うのも許さず、強い力で抱きしめられる。突き放す事が出来ない自分に
戸惑いながら、花耶は久宝寺の声を黙って聞いていた。
◇◇◇
「来たか……」
久宝寺は立ち止まり、素早く周囲に目線を走らせる。深まる薄暮の中、往来
から不自然に人の姿が消え、代わりにチラつき始めた別の影があった。
有無を言わさず花耶を家まで送りつけて、それからずっと『ついてきてる』
のは承知していた。徐々に姿を現せたそれは鬼火のようだった。
「散れ。お前に用は無い。失せろ」
微妙にその声音が変化した。と、同時に鬼火は消えた。久宝寺の言葉通りに
『消された』のだ。それを無感動に見届けた後、久宝寺は顔を上げた。
「出て来い。姿を現せ」
何も無い筈の虚空。そこで透明な気配が揺らめく。唐突に、それは現れた。
「ふふっ、大したモノだ、たかがヒトの分際で、私をここまで引っ張り出す
とはな」
間近にぽっかりと浮かんだ月、もしくは銀色の巨大な水泡のようだった。
それが見る間に研磨され、中から現れたのはヒトの姿をした魔物。
「やっぱり、お前か。氷上」
純粋な闇が凝縮され、そのまま人の姿を成したようだった。けれどその容
姿に覚えがあった久宝寺には、忌々しい以外の何物でもなかった。
「とっくに俺の正体なんてわかってた口ぶりだな。肝心の花耶は、気付か
なかったのに。まあ、思い出して貰う為に”以前の姿”を強く打ち出した
せいもあるけどな。それにしても心外だ。お前をみくびっていたかな?」
長髪が短く、黒く変わる。微妙に姿がブレたかと思うと、完全に見知った