月下行
確か、七歳になってすぐの夏だったと思う。いつものように遊びに行ったのは、
村の外れにある鎮守の森だった。そこには簡素な造りながらも朱塗りの鳥居と
社があり、本殿の前には手頃な広さの空き地もあって、格好の遊び場所だった。
「誰かが、言い出したんだっけ。社の中に納められている、御神体を見に行こ
うって。本当にあるか、どんなモノか、自分たちの目で確かめようって」
焦点の合わない虚ろな目で花耶は呟く。その無防備に投げ出された身体を、何か
がゆるゆると這い回る。
「あたし達は知らなかった。自分達の村の守り神が何であるかって。大人は絶対
に教えてくれなかったから。何故かは知らない。けど……」
花耶はビクリと身体を震わせた。衣服はちゃんと身に着けている。なのに、遮る
物などないように、ひやりと冷たい感触が直に肌に触れてくる。
目を開いても<それ>が何であるか、わからない。目を凝らしても全く見えない。
どんなに足掻いても理解出来ない事象に遭遇した時、人は容易く現実を放棄する。
自滅を避ける為の作用なのだろうが、恐怖や不安は度が過ぎると精神の麻痺状態
を引き起こす。今の花耶が、正にそれだ。
「何も知らない、あたし達に怖いモノなんてなかった。本当に知らなかったから。
だから、あたし達は」
開けてはならない扉を開いてしまった。そして犯された罪の名は<禁忌>
「すぐにわかった。あたし達は単なる好奇心で、とんでもない事をしてしまった
んだって。もう、遅かったけど」
社の内部は、それほど広くはなかった。昼なのに薄暗くて、隅に立てられた白く
て長いロウソクが僅かな光明を投げかけるばかりで。
「よく知らないけど、御神体って鏡とか珠とか石みたいな物を勝手に想像してた。
けど本当に全然違ってた。あんなの……初めて見た」
正確な正方形。榊の杭を軸にして四方に厳重に張り巡らされた〆縄。そのほぼ
中央にそれはあった。
深い井戸のようだった。黒く濡れたような輝きを放つ石で造られた。が、井戸に
しては少し奇妙な構造になっていた。地上に突き出た縁の部分が無く、木枠が直接
床に設けられている。見方を変えれば、床に四角の穴をくり抜いただけのよう
でもあった。
「目一杯に背伸びして覗いてみても、真っ黒でちっとも何も見えなかった。まるで
地獄の底に続いてるみたいだって、誰かが言って……途端に、何か無性に怖い
気分になった。それは皆も同じだったみたいで、ジリジリ逃げ腰になって、それで」
慌てた誰かが、誰かにぶつかったらしい。そしてその誰かは注意が逸れていたのも
手伝って、大きくバランスを崩して、そのまま────
「〆縄の一部を断ち切った。子供とは言え、勢いづいて倒れてきた身体を支える
程の強さは無かった。わざとじゃない。望んでした事でもない。けど、結果的に
あたし達は大事な結果意を壊してしまった』
はっきりと覚えている。鮮烈な記憶だった。過去の記憶が戻った今となっては、
忘れることなど不可能だ。
「理性より先に本能が理解した。逃げろ、と。一刻も早くここから逃げ出せと。
それであたしは真っ先に走り出した。誰よりも早く、仲間を置き去りにして」
目に見えないモンが凄まじい勢いで溢れてくる。闇より深い闇の底から、何かが
駆け昇る。破られた結界に、自由を取り戻した身に、嬉々としながら。
「夢中で走り出した。遠くから聞こえる悲鳴を聞きながら……聞き捨てた。死に
物狂いで走った。ただ怖くて」
一心不乱に走って、走って……気付けば、村の入口に辿りついていた。
そこでようやく振り返って、花耶はその場に凍りつく事になる。
「何処へ、行く?人の子」
鮮やかな朱を散らして暮れかけの空に浮かんだのは、満ちかけの細い月と、秀麗な
魔物の姿だった。
長い銀色の髪が鈍く輝きながら風になびく。闇で染め上げたような艶やかな黒衣に
身を包んだ魔物は、声を立てずに笑って、幼い花耶を見下ろしていた。
「千ノ王。あたしは、お前に捕まったの?」
気付けば涙が溢れていた。閉じていた目を静かに開いて、花耶は前を見据えた。
「今、ここで本当に掴まったの?あの日の悪夢は、ここでこうして終わるの?」
「それはお前次第だ、花耶」
声と同時に姿が現れた。驚きに目を瞠る花耶の前で、それはすぐに完全な形を成す。
まるで最初からそこに存在してたかのように、自然に。
「あたし次第?それは……?」
「お前がここで諦めて私のモノになると言うなら、それまで。お前の仲間と同様、
この身の糧として取り込むだけだ。言った筈だろう?真っ先に私から逃げ出した
その判断力に敬意を表して、鬼追いをしようって。ああ、人の子は『鬼ごっこ』
と言うのだったか?まあ、どちらでも良い。ただ追いかけるのは本物の<鬼>で
ある私で、追われるのはお前一人なだけだ」
不穏な言葉とは裏腹に、魔物は優雅に微笑んでみせる。花耶はキュッと強く唇を
噛みしめた。
千ノ王と名乗った魔物は、数百年を過ぎた今も変わらぬ姿をしている。
名の由来は『千の魔物の王』だと聞いた。確かにその力が尋常でなく強力なのは、
本能でわかる。が、その身に吸収され消えた仲間の無念を思うと、花耶の胸中に
は、ふつふつと怒りが湧いた。
「何故?あの子達を喰ったの?結界を壊した事なら、結果的のそれでお前は解放
されたじゃない?自由になった筈なのに」
「随分な言い草だな。永きに渡りロクな見返りも無しで働いてやった報酬を受け
取って、何が悪い?」
魔物は花耶の顎を強い力で捕えた。
「漁夫の利、だよ。それでチンケな<村の守り神>なんかに仕立てられたんだ。
己が命と引き換えに術者が私をあそこへ封じ、それを横取りするように村人が
利用した。そして好機を得て、ようやく私は忌々しい枷から解放されたんだ。
けれど不自由の代償は、たかが子供如きの命で購える物ではない」
「たかが、なんて言うな。そんな……あの子達の親が、どんなに嘆き哀しんだか」
「だったら、覚えてるか?ただ一人生き残り、無傷で戻ったお前に、村人達が与え
た仕打ちを」
愛しむような仕草で、魔物は花耶の頬を撫でる。
「同じく人の子である癖に、まったく残酷な事だ。そうは思わなかったか?」
花耶は言葉も無く唇を噛んだ。
そうだった。無事を喜ばれたのも束の間、他の子供達は”神隠し”にあったと説明
すると、途端にその態度は急変した。
村の守り神を失った罪────結局、花耶は両親と共に村を追われる事になった。
それは『目印だ』と言って、魔物に髪を赤く染められた花椰の姿が一因でもあった。
不可思議な力で染められたその髪は、洗っても、切っても、元には戻らなかった。
家族三人で各地を転々として、けれどその奇異な髪のせいで何処にも落ち着く事が
出来ず────……
不遇の末に、花耶は前世での短い一生を終える。
「予想外だったな。もっと長く生き続けて、逃げて、私を楽しませてくれなくては。
見逃してやった意味が無いな。それとも仲間を置き去りにした『罪の意識』に負け
て、もうここで本当に終わらせるか?」
長い指先。作り物めいて、ひやりと冷たくて。繊細な動きで嬲るように花耶の唇に
触れる。
「卑怯者、だものな。同時に異端者でもある」