相撲番長
その後、俺は金土日の三日間、一歩も家から外に出ず、嘘っぱちの電話とメールを繰り返した。特に土曜の夜、テレビで格闘技を観てからは、その日のメインマッチでオランダの黒人が見せた跳び膝蹴りが、空想上の俺のフィニッシュブローになり、月曜の昼、つまり今となっては、まるで解説者のようにその状況を説明出来るまでになってしまった。鼻っ柱にいいパンチを貰ってカッとなった俺は一旦距離を取り、パンチを打つと見せかけて錦戸の懐に飛び込んだ。予想通り奴は両手で自分の顔をガードしたが、俺はそれまでの拳のやり取りの中で、奴のディフェンスに致命的な癖がある事を見抜いていた。脇の締めが甘く顎がガラ空きなのだ。今だ! と思った俺は、思い切り地面を蹴って空中に跳び上がり右膝を突き上げた。狙い通り、膝小僧が顎にヒットした瞬間、ウゲッと言う声と共に奴の頭が百度時計回転し、骨の砕ける時の何とも言えない嫌な音がした。俺はきっとその音を一生忘れないだろう。糸の切れた操り人形のようにガクンと倒れたニシキに馬乗りになり、俺はマウントパンチを浴びせようとしたが、完全に焦点の合っていない奴の目を見て、これ以上やると死ぬな、と思い、逃げるようにニコプラの駐車場を去った。俺は今、ニシキが死んでいない事を心の底から願っている。今の所、そんなニュースはテレビでやっていない。
これが、真相だ。
同じ嘘を何度も吐き続けている内に、自分でも本当の事のように思えて来た。話せば話す程、作り話に細かいディテールが加わり、どんどん完成度が上がって行くのだ。今では自分の膝に、あの時の感触が蘇って来る事さえある。あの時なんて存在しないのに。
この三日間とちょっとで、水田達俺の仲間には、何とか誤摩化せる自信が付いた。ただ、油断すると同時に、別の不安がどんどん膨らんで来る。
明日香と愛だ。
あいつらは俺が最初に送ったメールに一度も返事を返して来ない。探りを入れるべきか、時が流れて忘れ去られるのをじっと待つべきか。俺は携帯を開き、メールを打ち始めた。
<げんき? 落ち着いて来たから今度水田といっしょに遊ばない? 俺は明々後日あたりからヒマだよん>
しあさってを明々後日と書くなんて、変換して初めて知った。自分が知らない漢字をあいつらが読める訳が無いと思って、ひらがなに直した。でも、結局、そのメールは送らなかった。また返事が来ない事が怖いからだ。いつの間にか、携帯を握る手が、べとべとの汗で濡れていた。
昼飯を食った後、ここ最近日課にしている腕立て腹筋背筋反復横跳びスクワット各百回をやり、牛乳を一気飲みした。シャワーで汗を流して鏡を見ると、唇の腫れは殆ど元に戻って来たようだ。折られた鼻も、触るとまだ若干ぐにゅぐにゅしているが、放って置けばこのまま固まってくれそうだ。息ももう辛くない。触らなければ、痛みも無い。ほっぺたの傷も、とっくに消えている。さっき明日香にメールしようとしていたように、明々後日辺りにはパッと見じゃ分からないぐらいには回復しそうだ。
昼寝をしたら、また夢を見た。
また同じ夢。あの変なデブに殴られまくる夢だ。
血塗れになって起き上がると、デブは居ない。代わりに、俺はいろんな奴らに囲まれている。同級生。後輩。二中の錦戸とその仲間達。明日香と愛。お袋。写真でしか見た事の無い親父。俺が密かに好きな同じクラスの真面目っ娘、高木優子。その全員から、俺は一発ずつ次々と殴られ、唾をかけられる。高木優子に思いっきり罵られて、必ずそこで目が覚める。
「嘘吐きっ」
クレヨンしんちゃんの目覚まし時計が、午後三時を指している。こんな夢ばかり何時まで見るかと考えると、堪らなく憂鬱になる。
復讐しなければならない。
押入れからメリケンサックを取り出した。中一の時、通信販売で買って一度も使わないまま押入れに仕舞いっ放しになっていたのをさっきシャワーを浴びている時に思い出した。嵌めてみると、闘志がぐっと湧いて来た。決めた。これから外に出る時は、必ずこれを持って行こう。
そして、また夜。一日中何もしないでだらだらしているだけなのに、何故か腹が減り、眠くなる。人間の身体は、不思議だ。
同級生の佐藤裕太からメールが届いた。明日、水田の家に何時もの面子で集まろう。そんな内容のメールだ。俺は、ちょっと都合が悪いから明々後日行くよとメールを返した。明々後日は、漢字にした。
明々後日、仲間に会う。
その前に、リハビリ。明日は少し、外に出てみよう。そろそろ表の空気に慣れなくては。そうだ、また本屋に行ってヤンマガを買おう。一週分買いそびれて抜けてしまったが、まあ仕様が無い。もしまた本屋にあいつがいたら、今度こそメリケンサックでぶっ飛ばしてやる。これで殴れば、いくらあいつが脂肪のクッションで守られていても絶対に倒せるだろう。嘘を半分だけ、ホントに変えてやるんだ。そう思いながら、俺はまた眠った。メリケンサックを嵌めたまま。
楽しい夢を見たかったけど、また同じ悪夢を見た。
「嘘吐きっ」
どよーん。
5
次の日の午後、俺は思いきって外に出た。
久し振りに直接受ける陽の光が眩し過ぎて、足が竦む。引き蘢りの奴が、家から出られない気持ちが、ちょっとだけ分かる気がした。知り合いに会うのが、滅茶苦茶怖い。道の端っこを俯いて歩く。普段より早歩き気味に。
「おーい」
ぞっとして振り返ると、知らないおっさんが知らないおばさんを呼んでるだけ。びっくりさせんなよ。
「ついでに単三の電池買って来てくれー」
ってうるせえよ、おっさん。
あの日、女を迎えに行ったのと同じ道順で本屋に向かう。最初の百メートルは心臓が飛び出るくらいにドキドキしていたけど、やっぱし俺は引き蘢りとは一味も百味も違う。駅に着く頃には大分落ち着いて来た。何だよ。全然平気じゃん。出て来い! 知り合い。出て来い! デブ野郎。気が付くと俺は、アントニオ猪木みたいに、下顎を突き出している。
駅前のスタバで、試しにモカフラペチーノを買ってみた。店内に同じ中学っぽいやつらが何人か居たけど、問題無く普通に振る舞えた。「店内でお召し上がりですか?」と言う割と可愛いお姉さんの質問にも、「いや、テイクアウトで」と堂々と答えた。思えばお袋以外の人間と直接話したのは、かなり久しぶりだ。
平日の駅前は人が少ない。みんな朝早い電車に乗って、都内の会社や大学に行ってしまうからだ。東京と川一本挟んで接する俺達の町は、東京ディズニーランドよりも東京に近い、都会のベッドタウンだ。同じ千葉県民でも外房や南房に住んでいる漁民や農民と、毎朝都内に通勤し都内で洒落た服や洒落た雑貨を買い都内でディナーして帰る自分達が同じ筈が無い。そう主張する大人達は時に誇りを持って、自分達を千葉都民と呼ぶ。例えば、東京の中心を銀座だとして、銀座から東にこの街まで下ったのと同じだけの距離を反対の西に向かえば、そこはまだまだ余裕で東京都なのだ。千葉県民だと思ってなめたらあかんぜよ。試しにコンパスの針を銀座四丁目の交差点にブッさして、ぐるっと丸を描いて見るといい。東京の調布市より西に住んでる奴に、俺達を田舎もん扱いする資格が無い事が分かるから。