相撲番長
状況が理解出来ないまま適当に答えて目を擦ると、「ああそう。じゃあ」と背の小さいくるくるパーマのおばさんは去って行った。優しい割には意外にあっさりしていて、拍子抜けだ。余程重たいのか、袋を持っている手の方に思いっきり体が曲がっている。俺は逆に、おばさんの荷物持ちを手伝ってやりたくなった。何だか息がし辛い。おばさんの家の晩ご飯は何だろう。すき焼きかな。長ネギが見えるから。デブにやられちゃったみたいだ。喧嘩で負けるのは生まれて初めてだ。首の辺りがべた付いて痒い。明日香と愛はいないみたいだ。鼻から息が出来ない。
何があったんだ?
立ち上がって周りを見ると、やはり明日香と愛はいない。汗塗れのデブもどこかに消えている。平積みになったヤンマガの一番上の一冊は、雨に濡れたみたいにヨレヨレになっている。あのデブ、立ち読みだけで結局買わなかったな。喉が渇いた。鼻で息が出来ないから。
どうなってんの? 俺。
自動販売機で買ったコーラを一口飲んで吹き出した。唇と口の中で炭酸が大爆発している。鏡になる物が何も無いから、携帯電話で自分の写真を撮ってみた。カシャ。
救急車を呼ぶかどうか聞かれた訳が、やっと分かった。まず、明らかに鼻が折れている。鼻の下で鼻血が固まって赤いちょび髭みたいになっている。唇は腫れて捲れ上がり、鱈子だ。右のほっぺたに虎に引っ掻かれたような三本線が入っていて、顎の先と喉仏の下あたりにも半乾きの血が付いている。今更気付いたけど、一張羅のアロハシャツも、血塗れじゃん。電話の切ボタンを押すと、画像を保存しますか? と言うメッセージが出て、俺は当然、いいえ を選択した。こんな顔、人に見せられる筈が無いだろう。取り敢えず顔を洗って鼻を何とかしたい。怒りよりも、恥ずかしさが込み上げて来る。擦れ違う人達の冷たい視線を感じながら、来る時と同じ道を逆に歩いた。
途中、百円玉が落ちていたけど、拾わなかった。
家に着いて靴を脱いだ瞬間に、携帯電話が鳴った。水田からの着信だ。出ようかどうか迷っている内に、切れた。ついでに携帯の時計を見ると、まだ三時四十分。ざっと計算すると、俺が気絶していたのは、ほんの五分くらいだと言う事になる。
顔を洗うと、血で泡がピンク色になった。体も洗いたくなって、シャワーを浴びた。風呂場の鏡に映る顔は幾らかましになったが、曲がった鼻が喧嘩に負けた惨めさを際立てている。無理に鼻呼吸しようとすると小鼻が魚の鰓みたいに開いたり閉じたり。間抜け過ぎる。情けないよ。
「畜生」
呟くと、怒りが込み上げて来て、信じられない事に、俺は泣いてしまった。しかも子供みたいに声をあげて。悔しい。やられちゃった。しかもあんな変なデブに。
「くっそーっ」
親指と人差し指でひん曲がった鼻を力任せに引っ張った。軟骨の軋むブキッと言う感じの音がして、鼻血が物凄い勢いで溢れ出て来た。生臭い血の匂いがして、口の中には塩っぱい味が広がって行く。シャワーを水にして、鼻血が治まるまでかけっ放しにした。陰毛が一本、血で薄赤くなった水に押し流されて、排水溝に吸い込まれて行った。
まさか殴り返して来るなんて思わなかった。敗因はそれに尽きる。最初から奴に戦意があると分かっていたら、こんな惨めな顔には絶対にならなかった。だって負ける訳がないじゃん、あんなのに。とは言え、そんな話をしても言い訳臭くなるだけだ。俺に残された道は復讐しか無く、例え奴をぐちゃぐちゃにしてやっても、一度はあんなダサいデブにやられた男として、俺のランクは大幅にダウンするだろう。あの状況から考えて明日香と愛は、俺がやられるのをばっちり目撃しているに違いない。まずは、如何にしてイメージダウンを最小限に抑えるかを考えなければ、この街で生きて行けなくなる。
風呂場から出ると、水田からの不在着信が三件あった。所々に血の付いた悲しいバスタオルを腹に巻いて、俺は水田にメールを打った。
<悪い。お前んちに行く途中、二中のニシキと喧嘩になった。ぶっとばしたけど俺もだいぶ殴られて女もしらけて帰った。また今度にしよう〉
送信ボタンを押してから、しまったと思った。とんでもないメールを送ってしまった。こんな嘘絶対ばれるに決まっている。もしばれたら。例えば、水田や別の仲間が何処かでニシキに偶然会って、その時奴がまるで無傷でピンピンしていたら。或は、あらぬ不名誉を着せられたニシキが俺達の中学に攻め込んで来たら。考えただけで胃が痛くなる。でも、もう遅い。送っちゃったもんは、無かった事には出来ない。ダッシュで水田の家に行って携帯をぶっ壊さない限りは。でもそんなの絶対、無理だ。第一、こんな惨めな顔じゃあ、外にも出れない。
冷蔵庫を開けて牛乳をパックごと一気飲みした。心労で荒れた胃の粘膜をミルクで包み込むと良いんじゃないかと思ったからだ。まるで逆効果だった。胃袋が余計に重くなった。しかもこの牛乳、賞味期限昨日じゃん。
仕方ないか。もし嘘がばれたら、錦戸そっくりの別の奴だった事にして恍けよう。それしか誤摩化し様が無い。もし二中が攻め込んで来たら、それまでに体を治して、返り討ちにすれば良いだけだ。そうだ。今俺が一番やらなければならない事は、寝る事だ。寝て体力レベルを元に戻そう。
あ。
何か妙に前向きになって来た所で、また嫌な事を思い出した。明日香と愛に口止めするのを忘れていた。順番が逆。普通、水田よりもこっちが先だろ。屈辱と動揺で、徒でさえ少ない脳味噌が半分になっちゃったみたいだ。最悪。こうなったらデブに伸ばされた後、すぐに探しに行ってデブをぶっとばした後、たまたまニコニコプラザか何かでニシキに会って些細な事で口論になり、ニシキもぶっとばしてやったみたいな事にしないと帳尻が合わない。しかも、成る可く早くその嘘を吐かなければ、デブにやられた事実だけが地元中に広まってしまう。
<今日はゴメンネ あのあとデブは探してシメたよ。でもその後ニコプラ行ったらニシキに会ってニシキもシメた。また遊ぼうね>
我ながら酷い文章だと思った。リアリティーがまるで感じられない。このクソみたいな作文をここからどうやって直して行こうか思案している時、いきなり電話が鳴り出して、俺は思わず操作を誤りクソ文を送信してしまった。しかも鳴った電話も取ってしまい、二中のトップを親友が倒した事に大興奮した水田の電話に出てしまった。
「あ、うん、まあな。勝ったよ。鼻ちょっと曲がっちゃったけど。うん。あいつ多分アゴの骨折れたよ。口からすげえ血出てたもん。うん。まあ今度話すよ。ごめんな、女。うん。まあどうせまたやれるっしょ。余裕だよ。ああ。すごくねえよ。また今度話すよ。うん、じゃあな」
電話を切って頭を抱えた。嘘吐きの才能がある事に、初めて気付いた。でも、どうしよう、これから。まずい。
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