エイリアンの恋
サングラスをはずしたリサの顔はたしかに憔悴していた。化粧が崩れ、眼の焦点が微妙にずれている。こうなるとたちが悪い。カツミさんは首をすぼめただけで、チャームのピーナッツをつまみはじめた。おれも触らぬ神に祟りなしとグラスを引き寄せる。
竜さんだけが、空気を読みきれていなかった。リサの顔を覗きこむようにして、おずおずといった。
「やめたほうがいいよ、リサちゃん。好きでもないひととそういうことするの」
「ほっといてくれっていってるんだから、干渉すんなよ」
おれは呆れ半分にたしなめた。いつもならそこでおとなしく引き下がる。しかし、このときはしつこかった。竜さんらしくない。酔っているのかもしれなかった。拗ねた子どものように口のなかで呟く。
「せめて、避妊してくれたら、心配もしないけどさ」
「避妊?」
リサが耳ざとくグラスを置いて顔を上げる。
「竜ちゃん、避妊って漢字書ける? 妊娠を避けるって書くのよ」
「やめろって、おまえも」
遮ろうとしたが、逆効果だった。リサは鋭い目つきでおれをにらみつけた。
「逸郎だって、あたしとゴムつけてやったことなんか一回もないじゃない」
おれは脂で汚れた天井を仰いだ。カツミさんはにやにやしている。ママは我関せずといった顔をしている。
リサはしばらくの間、困惑顔の竜さんを見つめていたが、なにを思ったのか、突然サンダルを脱いでカウンターの上によじ登った。
「ちょっと、なにしてるのよ」
ママが憮然とした顔で抗議したが、リサは無視した。竜さんの前に立ち、唖然としている彼に向かって腰を突き出し、いきなりワンピースの裾を腹まで持ち上げた。
「どう、竜ちゃん」
リサは下着をつけていなかった。萎えた器官を目の当たりにして、竜さんは間の抜けた顔をしている。
「心配することないってわかった?」
おれはため息を飲みこんだ。馬鹿なおかまだ。こんなことをしてなんの意味があるというのか。
竜さんが視線を逸らす。かわいそうに、青褪め、薄い息を吐いている。
「もういいでしょ」
ママがうんざりしたようにいって、リサはようやくカウンターを下りた。ラップダンスでもはじめるのかと思ったが、さすがにそこまでする気はなかったらしい。竜さんの戸惑いを満足げに見て、なにごともなかったかのようにカクテルを舐める。
「くだらないことやめろよ、リサ」
黙っていられず、口を挟んだ。
「竜さんに八つ当たりするな」
「なにそれ。いつからノンケも喰うようになったのよ」
飛び交う専門用語。カツミさんもげんなりしている。だれもがリサを持て余していた。剣呑な雰囲気のなか、竜さんが呟いた。
「そういう意味じゃない」
「え?」
「病気を心配したんだ」
竜さんがじっとリサを見つめる。リサはエクステンションの貼りついた睫毛を震わせて瞬きした。
「あたしが女じゃないって知ってたの?」
おれはカツミさんと視線を交わした。ママも眉を上げて客同士の諍いを見ている。
「ここがどんな店だか知ってたわけ?」
リサが重ねて攻めたてる。今度は庇わなかった。竜さんは顔を伏せて黙りこんでいる。カウンターごしにママの小さなため息が聞こえた。捉えかたによっては、リサの詰問以上にこたえるため息だった。
「すみません。帰ります」
それだけいうのが精一杯のようだった。竜さんは財布から千円札を数枚抜いてカウンターに置き、立ち上がった。逃げ出すように店を出て行く。だれも見送らなかった。
「見事に騙されたな」
竜さんの姿が消えると、カツミさんが肩を竦めていった。
「そりゃばれるだろう、いくらなんでも。いちいち責めることない」
「逸郎は竜ちゃんの味方ばかりするのね」
リサが皮肉をいう。
「ほんとは狙ってるんじゃないの?」
「かもな」
無表情に答える。
「おまえよりそそる体してるってことは確かだ」
いきなりストゥールを蹴り上げられ、おれは体勢を崩した。咄嗟にカウンターにしがみついて転倒は避けられたが、肘を打ちつけて、顔をしかめる。
おれを蹴ったリサは、金も払わずに店を出て行った。ママが呆れたような顔で竜さんとリサの席を片づけはじめる。
「なんなんだ、あいつは」
「しょうがないでしょ。リサは逸郎が好きなのよ」
俄かには信じがたい。好きだの嫌いだのといった感情は介在しない関係で、リサもそのことを承知しているはずだった。今更やきもちなどやかれても、鬱陶しいばかりだ。
「いらないなら、おれが引き受けてやってもいいぞ」
カツミさんが下卑た笑いを浮かべる。顔は笑っているが、目の奥は真剣だった。
「どうぞ」
短くいって、薄くなった酒を啜った。なにもかもが鬱陶しい。以前まではこうではなかった。一夜だけ、体だけの関係に、だれもなんの疑問も持たなかった。
カウンターにぶつけた肘を擦る。わずかに腫れてはいたが、数時間もたてば元にもどるだろう。この店もまたすぐに元の世界を取りもどす。閉鎖された喜劇的な世界を思い出すはずだ。異星人はもうやってこない。
竜さんは薄いピンクのラグランスリーブにエプロン姿だった。靴下にサンダルを履いて、踵を引き摺るように歩く。
おれはサングラスをはずし、立ち上がった。小柄な竜さんを見下ろす。
「子どもたちが、変なおじさんがいるっていうから……」
「おれは竜さんより年下なんだぜ」
「子どもたちから見たらおじさんだろ」
苦笑いしてみせる。花壇に座って保育所を眺めていたのは、園児を品定めするためではない。
「だけど若く見える」
「おれ?」
「昼間会うのははじめてだから」
昼はもちろん、夜でも”霧笛”以外で顔をあわせたことはなかった。互いに苗字も知らない。勤め先を突き止めることができたのは、駅名だけを話の隙間に聞いたことがあったからだ。突然現れたおれを見て竜さんが驚いたのも無理はない。
「全然店にこないから」
「行けないよ」
竜さんは力なく笑った。
「リサのことなら気にしなくていい。あいつも酔っ払ってたんだ。たぶん、覚えてないと思う」
「そういう問題じゃなくて」
エプロンの端を弄りながら、竜さんがもどかしげにいう。
「みんなと顔をあわせるのが気まずい」
「ゲイバーだから?」
竜さんは説教を受ける子どものように頭を垂れている。
「ゲイバーだって知ってるっていやよかったんだ」
「追い出されるかと思って」
「そんなことしない。べつにノンケお断りってわけじゃないんだから」
「でも、みんな相手にしてくれない」
「そんなことないって」
繰り返しながら、改めて呆れた。こんなことをしてなにになるというのか。
竜さんの不安は的を射ている。ノンケで口数もすくない竜さんがあれほどみんなに好かれ受け容れられていたのは、天然だと思われていたからだ。「友達になってください」といわれるよりもスムーズに距離を縮めることができた。だれのせいというわけでもないが、今更顔を出しても、以前のような和気藹々とした雰囲気にはならないだろう。
竜さんにも悪気があったわけではない。いつの間にか勝手にキャラクターをつくられ、そこに嵌められて、雁字搦めになってしまった。もともと器用なタイプではない。それなりに引けめを感じていたのかもしれない。