ホロウ・ヒル (1)
椅子に座ってぼんやりとクリストフの顔を見つめていたシェルの耳に、ドアが開いた音が聞こえた。
「シェル。お役ご免だ」
下男の言葉に、シェルは殴られたかのような衝撃を感じた。
「え……?」
「そいつの引取先が来たんだよ。さっさとしないと、女将の機嫌が悪くなる」
シェルの戸惑いを余所に、下男はクリストフを掛けていた毛布ごと抱き上げた。
「でも、まだ熱が!」
「かまわねぇさ。この先の面倒は、引取先が見る」
「そんな!」
乱暴に肩に担ぎ上げられても、クリストフの目はぴくりとも開かない。
「そんなこと言ったって、すごい高熱だったのよ。やっと安定してきたのに、無理に動かしたらまた熱が出るに決まっているわ!」
担がれたクリストフの体を無理に卸させようとするシェルを、下男は引き離すように突き飛ばした。
「いい加減にしろ、ここは慈善院じゃねぇんだ! お前も青臭い事ばかり言ってないで、さっさと仕事を始めるんだな!」
『仕事』と聞いてシェルの顔から血の気が引いた。
そうだ、クリストフの世話役はウーゴが戻るまでの一時的なものだった。その役目が終わればシェルは最初の予定通り、娼妓になり客を引かねばならない。
青い顔でうつむいたまま黙り込んでしまったシェルに満足した下男は、悠々とした足取りで去っていった。
このもめ事を見物しに何人かの店の者が集まっていたが、ショックにうちひしがれているシェルを慰める者はいなかった。中には哀れみを持って見守る者もいたが、大抵は、このところの店の騒ぎを面白く思っていない者ばかりだった。
視線に気付いたシェルが顔を上げると関わり合いを避けるため、見物客は逃げるようにそれぞれ散って行く。
一人取り残されたシェルは、折れそうになる心を必死に押さえた。
(泣いちゃダメだ。泣いたら元の私になる)
どうして良いかわからないまま、ただ流される弱い自分になりたくない。
シェルはどうやったら、クリストフを取り戻せるか考えた。お金もない、力もない。只の小娘ができる事なんて限られている。
(私は誰より、クリストフの側にいた。クリストフの事なら何でも知っている……)
それまで弱々しかったシェルの顔に、生気が戻った。そして誰か見ていたら、何があったのかと思うほど機敏な動作でシェルはクリストフの後を追った。
眠るクリストフを見たアベルは不満そうな顔で、女将を振り返った。
「病気ですか?」
「死んじゃいないよ、寝ているだけさ。生きているだけで十分だろ?」
「……」
女将の返事をどう思ったのか、アベルは肩をすくむと側にいた部下にクリストフを受け取るよう命令した。
「では、確かに。ご協力感謝します。マダム」
「ふん」
礼金に女将の手が伸びたとき、ノックの返事も待たずドアが開けられた。
部屋に入ってきたシェルの姿を見た女将の眉が勢いよく跳ね上がる。
「何しに来たんだい!?お前の仕事は終わっただろう、早く出てお行き!!」
女将の怒鳴り声にひるみそうになるが、それでもシェルは精一杯の声を張り上げ、一番偉そうにしている騎士に食い下がった。
「お願いします。私をクリストフの世話係に雇ってください!」
「なに言い出すんだ! お前は私のものだ、冗談にも程がある!」
「……」
わめき散らす女将に対し、騎士は無言でシェルの小さな顔を見つめた。
「ここの借金は、お給金でどうにかします。お願いします」
値踏みするように騎士の視線が足もとから胸元に移動し、シェルの金の粒が散らばる若草色の瞳で止まった。
「……君の出身は、コランダムですか?」
「え?」
「いえ…… 雇って欲しいと言いましたね。世話係は確かに必要ですが、こちらにはすでに乳母や優秀な使用人がそろっています。残念ですが、お引き取り下さい」
アベルが指示をするまでもなく、心得た部下がシェルを部屋から連れ出そうとする。そうはさせないと、シェルは押し出されそうになる体を懸命に止める。
「クリストフは、私の言うことしか聞かないわ!それでもいいの?」
「……そうなのですか?」
アベルが女将に確認すると彼女は怒りも露わに、凝った彫刻が自慢のテーブルに拳をたたきつけて椅子から立ち上がった。
「シェル、この嘘つきが!さっさとその口を閉じな!」
「嘘じゃないわ!その証拠に、その男の右手を見て。クリストフが噛みついた跡が残っているはずよ!」
アベルの部下が下男の右手を捩り上げる。確かに子供かなにか、噛みついた跡がしっかりと残っていた。
「なるほど、いまは病気で動けない。しかし直ったら、子供は獣のように噛みつく。そういう事ですね」
「そうよ、これから騎士様はクリストフをどこかに連れて行くんでしょ?騎士様は獣のようなクリストフを、どうやって言うことを聞かせるの?縄で縛って?それとも檻に閉じこめておくの?私がいれば、クリストフは大人しくって可愛い子供のまま。私はそれができるの。雇わない手はないわ」
それまでただの小娘だったシェルは自信に満ちあふれ、挑発するようにアベルから視線を外そうとしなかった。
女将とシェル双方の顔を見比べたアベルは顎を指先で叩き、考えている仕草をし始めた。
作品名:ホロウ・ヒル (1) 作家名:asimoto